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大辻隆弘 新版『子規への遡行』

 著者第一評論集の新版である。 1990年代、平成の初期に書かれた論考を集める。子規に対する論考だけでなく、近代から戦後派、前衛短歌、さらに当時の中堅歌人に対する論考も多く収録されている。ほぼ30年前に書かれた論を中心とする一冊であるが、「私性」「他者性」「文体」「読み」など、その後の大辻評論の鍵となる論点が、すでにここで提示されている。子規についての知見を得たくて読んだが、それ以外の文体論など興味深い論も多かった。

〈初期の河野の歌がもっていた実存的な体性感覚は、常に他者との距離感の介在によってより濃やかに研ぎ澄まされた形で歌の中に登場してきた。(…)そんな彼女が、「子」という他者との根源的な命の共有を確信し、それを自らの作歌の立脚点にしたとき、彼女の体性感覚は歌のなかでは表現し得ないものになっていったのではないか。(…)これらの歌集のなかには、初期の河野の他者詠にみられるような「遠さ」の感覚をともなって、子が歌われている歌もあるにはある。「むかう向きに何して遊ぶ二人子かチョークで描きし扉を閉ざし 河野裕子『桜森』事もなき日の暮れがたの道の端に白箸折りて何遊ぶ子ら『はやりを』」〉

〈彼(岡井隆)は、アララギ内部で流通した上下句を接続するいくつかの文体を模倣し、その文体が内包する詩的な発想の形式をみずからのものとすることによって、象徴や暗喩に連なる自分の詩脈を掘りさげていったのだとも言えよう。(…)(佐藤)佐太郎の『帰潮』の文体的成果を継承しつつ、その文体の可能性をみつめ直すなかで、岡井はすでに塚本(邦雄)短歌と出会うまえに、彼なりの象徴的な詠法を確立しつつあったのではなかったか。彼を塚本の象徴的手法に出会わしめたものは、実は戦中期・戦後アララギの文体そのものだった。文体に導かれて彼は喩と出会ったのだ。〉

 特に面白かったのは、河野裕子の子の歌を論じたものと、岡井隆の文体の生成についての論だ。アララギの接収が岡井の原体験にあるという論は今も新鮮である。

〈(栗木京子の)『中庭』のなかの「私像」を、他の若い女性の歌集、例えば(…)のなかのスタティックで固定的な私像と比べると、『中庭』のなかの私像は比較的ファジーだ、ということができるのではないでしょうか。〉

 「私像の時代」では、一冊の歌集に現れる私像が「スタティック」か「ファジー」かという点に触れている。一人の私像にぶれがあること(「ファジー」であること)は現在では、特別視されることではないと思える。

現代短歌社 2017年10月 2600円+税 (初版は砂子屋書房 1996年) 


 

 


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