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佐藤モニカ『白亜紀の風』(短歌研究社)

 第二歌集。2017年から2021年初夏までの310首を収める。沖縄本島北部で夫と幼い子供の三人での暮らしが描かれる。毎日のさりげない日常に、首里城消失や辺野古埋め立てなどの社会的事件が含まれる。また自身のルーツであるブラジル移民であった曾祖母や母の歌が印象深い。また沖縄という島に鉄道が無く、駅も無い、駅前などの観念も無いなど、一見当たり前のようで住まないと分からないことなどもさりげなく詠われている。明るい詠い口にどこか心が救われる。

とほき世に貸し借りをせしもののごと今朝わが肩に落つる花びら

 生まれるはるか前、前世と言ったらいいのだろうか。その時貸し借りをしたもののように、今朝、私の肩に花びらが降ってきた。おそらく前世で貸した花びら。今お返しします、というように肩の上に降ってきたのだ。

幾つもの橋を渡りて戻り来る明け方のわれ水濃くにほふ

 夜寝ている間に幾つもの橋を渡って歩いていた。渡っている間に橋の下を流れる水の匂いが身体に沁みついてくる。橋を渡って戻って来る。それが明け方のことだ。ふと目が覚めて、自分の身体から濃い水の匂いがするのに気づく。あの時渡った川の水だ。ぼんやりと夢を反芻する。

うらおもてあるやうな朝ゆつくりとかへせばこちらが夢かもしれず

 夢と現実のあわいを描いたような一首。もうすぐ起きなければいけない。けれども身体がなかなか動かない。朝に裏と表があるようだ。今は表側、現実の側にいるけれど、それを裏返せば、今いるところが夢かもしれない。微妙な感覚を掬い取っている。

「替はります」と手を挙げらるることなくてなければ長くこの島が持つ

 沖縄に存在する基地の問題。どこか他の地域が、基地を持つのを替わりますと言ってくれるわけではない。それがないのでこの島、沖縄が長く基地を持っている。目的語を省くことによっても、はっきりと何の問題なのかが浮かび上ってくる。

ふり仰ぐたびに寂しさ増すやうな花の季節よ樹下に入りゆく

 何の花だろう。前後の歌からやはり桜だろうか。花の咲く樹の下に入ってゆく。花が美しく明るく咲けば咲くほど寂しさが増していく。咲いている花を振り仰ぐたびに一年に一度だけ咲く花とその花が咲くまでに過ぎて行った時間が頭に浮かぶのだ。生きれば生きるほど寂しい。そんなことを思わせる、花の季節なのだ。

一本の樹木にしばし休みゐるひとに似てをり子のイニシャルは

 詞書は「K」。子のイニシャルがKなのだ。その字は一本の樹木に背中をもたせかけて休憩している人に見える。樹の下で、葉の間から射して来る陽光を浴びながら、一息ついている人。そんな動画の一場面のようなものが頭の中に浮かんでくる。子のイニシャルを眺める母の頭に。

心にも一樹はありてその一樹けふやはらかに緑濡らせり

 心の中にも樹がある。その一本の樹は今日はしっとりと緑の葉を濡らして立っている。風にざわつく日も、炎天下に真っ直ぐ立つ日もあるだろう。今日はやさしくやわらかに露に濡れているのだ。

ゆふぐれの風に吹かれてほどかるる糸のあるらむ子のこころにも

 子供の身体を夕暮れの風が吹き抜けてゆく。まだ幼い子は風の中で少し力を入れて立っている。そんな子供の衣服の間を風が通り、布から糸がほどけていくように、心の中の糸がほどけていくようだ。そして糸は風になびく。子供の心にもしっかりした部分と、風に解かれなびいていく柔らかい部分があるのだ。

根底に祈りをもちて語りたしたとへば百合を掲げるやうに

 この百合は何かを喩えたり象徴したものではないと取りたい。自分の心の中に百合の花があるイメージ。そしてそれを掲げるように、語りたい。心の底に祈りを持って、分かり合いたい、分かれるはずだとの思いを込めて人と語りたいのだ。百合はただ主体の心に咲く白い花。

とほき国の日本語学校旧かなで日本語教わる少女(をとめ)の母は

 主体のルーツに関わる歌。ブラジル移民の曾祖母、その子の祖父、そしてその娘である母。母は遠いブラジルの日本語学校で旧仮名で日本語を教わっていた。やがて祖母の国日本への憧れを募らせて、日本に留学生としてやってきた。きっと色々な苦労や葛藤があったことだろう。けれど、常夏のブラジルで旧仮名で日本語を習っている母は、主体の心に永遠に少女として存在するのだ。

短歌研究社 2021.8. 2600円(税別)

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