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塩野七生『十字軍物語1』(新潮社)

 帯文は「神がそれを望んでおられる! Deus Lo Vult !」ホントウか?世界史の教科書でざっとしか知らない十字軍について、実に詳細に描かれた本。もちろん、キリスト教徒側の視点で終始描かれているが、イスラム側の資料も充分駆使して、一方的では無い描き方となっている。宗教は違えど、どちらも人間であることに変わりはないことを痛感する。歴史小説なのだが、塩野七生お得意の人物描写のおかげで、歴史上の人物がまるで今生きている知り合いのように生き生きと描かれる。段落幾つかごとに数行空白があり、字がぎっしりという印象ではない。ページ数の割にはどんどん読める印象だ。

 思わず登場人物に肩入れしたくなる、塩野の巧みな人物描写を幾つか引いておく。

プーリア公ボエモンド
〈背は、総じて高いヨーロッパからの諸侯に混じっていても頭一つ高く、金髪で、瘦せ型ではあっても頑健な身体つき。青い眼で射るように人を見、堂々とした立ち居振舞は自尊心の強さを示し、激しい性格であっても冷静で悪賢く、それでいながら何とも言えない愛敬が漂う。〉p45
 多分、本冊における塩野の一番のお気に入りはこの人。塩野はロマンティストや理想家は嫌いである、と私は思う。現実的で冷徹でやるべきことをやる人物を好むのではないか。ボエモンドは宗教的な理想に燃えた人物とは正反対の描かれ方をしている。

イェルサレム王(となった)ボードワン
〈今やボードワン一世と名乗るようになったまだ三十代後半のこの人の最上の美点は、復讐や怨念を忘れ去るところにあった。すべては、もはや過ぎたこと、なのである。(…)また、怒りにわれを忘れるようなところもなかったし、ライヴァル意識も超越していた。ただしそれは、彼が立派な人格者であったからではない。ただ単に、時間の無駄にすぎなかったからだ。それでいて、感受性は豊かであったのか、人間関係は良好に行くのがほとんどだった。〉p242
〈この人が、怨念にわずらわされず権威をかさに着ない性質でもあったことはすでに述べたが、そのような性質の人は、他者のもつ怨念までも氷解してしまうのか。〉p279
 この「1」の後半から急激に魅力を放ち出すのがこの人物。特にこの部分の人物描写は塩野の価値観を映し出していて、人としての在り方について、とても考えさせられる。

タンクレディ
〈タンクレディは、三十六歳で死んだ。この時代では、早すぎた死、ではけっしてない。だが、なぜか、歴史上のタンクレディは、若さの象徴と見なされてきた。
 十六世紀イタリアの文人であるタッソの長編詩、『解放されたイェルサレム』でのタンクレディは、青春そのものとして描かれている。また、十九世紀には、ロッシーニがオペラ『タンクレディ』を作曲し、若いがゆえの悲劇として描き出した。
 そして二十世紀。ヴィスコンティが監督した映画『山猫(ガットバルド)』である。あの映画でアラン・ドロンが扮した若さあふれる老公爵の甥を、この映画の原作を書いたシチリアの作家ランペドゥーザは、タンクレディと名づけたのであった。
 今なおヨーロッパ人は、それもとくに南欧の人々は、タンクレディという名を耳にするだけで、ほとんど自動的に、信義に厚くそれでいて若々しい、永遠の若者を想い起すのである。〉p278 
 塩野は時にこのタンクレディを「若造」「チンピラ」などと呼びながら、若く果敢で戦闘のセンスに富み、先見の明があり、信義に厚く、現実的で有能な政治能力の持ち主として存分に描いている。

 塩野七生はその人物に惚れ込むと筆が冴える。この「1」において塩野は、上記の3人に惚れ込んでいると思う。イェルサレム攻略の主となり、後に事実上のイェルサレム王となったロレーヌ公ゴドフロアは資料が少ないのか、さほど生き生きと描かれていない。彼が第一の功労者であり、イェルサレム王を名乗らず「イエス・キリストの墓所の守り人」と控え目に(政治的な目的もあろうが)名乗ったことなど、好意的には描かれているのだが。

以下ネタバレあり。と言っても史実ではある。
↓  ↓  ↓
 「十字軍という歴史上の出来事があった」ということは高校の世界史で習うので皆知っている。だがその結果、どうなったかはあまり知らないのではないか。
〈ここまでに述べた二十三年間で、十字軍国家の確立は成ったのである。エデッサ伯領、アンティオキア公領、トリポリ伯領、そしてイェルサレム王領という、言ってみればイェルサレムを中心にした連邦国家である十字軍国家が、明確な形で成立したのであった。〉p282
〈第一次十字軍によってシリア・パレスティーナの地に打ち立てた十字軍国家は、これら第一世代が創り上げたのであった。ヨーロッパを後にした一〇九六年からイェルサレム陥落までの三年間で征服をし、その後の十八年を費やして確立して行ったのである。
 皇帝も王も参戦していなかった第一次十字軍の主人公たちは、ヨーロッパ各地に領土をもつ諸侯たちであった。彼らは、ときに、いやしばしば、利己的で仲間割れをくり返したが、最終目標の前には常に団結した。この点が、利己的で仲間割れすることでは同じだった、イスラム側の領主たちとのちがいであった。そして、それこそが、第一次十字軍が成功した主因なのである。〉p284

 これで第一世代の人々は退場した。次の世代のどんな魅力的な人物に会えるか。これから「2」を楽しみに読みたい。

新潮社  2010.9. 定価2500円(税別)



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