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『人の心はどこまでわかるか』河合隼雄(講談社+α新書)

 臨床心理学者の河合隼雄が同輩後輩の心理療法家からの質問に答える形で書いた本。著者は禅の「答えは問処(もんしょ)にあり」という言葉が好きだと書くように、質問の中にすでに答えが含まれていると考えているが、それでも誠心誠意答えていく中で、著者自身の思考にも変化が表れている。20年以上前に書かれた本だが、今現在の問題を先取りしているところもある。
 
 以下は、気になったところを自分用のメモとして引いたものである。

〈社会が不安になると、みんな、どうしてもなにかに頼りたくなります。自分で考え苦しんでいるより、なにかに頼る方が楽だからです。そこに落とし穴があるわけで、詐欺まがいのことは、やろうと思えばいくらでもできます。
 だいたい人間というのは、ほとんどの人が催眠にかかりますから、類似催眠状態にすればいろいろな劇的なこともある程度可能です。〉p95
 依存症的な心理のことだろうか。催眠状態は後でぶり返しが来ると書かれており、怖いと思った。
〈人間というのは関係の中に生きていますから、全体の中でイメージを合わせていくということがかんじんだし、一人が変わることで、全体が変わってきたりします。〉p136
 これはまだ経験したことが無いかもしれない。
〈最近問題になっている、神経症でも精神病でもない『人格障害』の学生を適切に引き受けてくれるリファー先は、さらに見つけることが困難です。〉p150
 これは2000年発行の本だが、この本的に「最近」人格障害が問題になってきていたのだ。
〈最近、学生相談の現場で感じるのは、彼女のような実感のなさ、根底の空虚さを抱えて漂っている若者が増えてきているのではないかということです。離人症と呼べるほどはっきり症状化もせず、苦悩を言語化して洞察することもできない。でも、自分が生きているという主体的な実感に乏しく、無気力になって自室に引きこもったり(大学不登校)、逆に極端な性体験や食行動、自傷他害などの行動化をしたりします。中には人格障害と診断できるような重い例もあって、(…)〉P154
 これは20年後の今日でも言える。ここにも人格障害の語が。
〈この空虚さとかアパシー(無関心)の問題は、いま大変に深刻です。
 人間が生きていく場合、ある程度、モノがないほうが生きやすいのではないかと私は思っています。あまり豊かすぎると、自分の目標が見えなくなってくるからです。〉p155
〈空虚さも無気力も、そうした社会的背景のもとで起こっているように思われます。ですから、いま日本人全体が、モノがある生活というのはどういうことかということについいて、よほど真剣に考えないといけないでしょう。〉p157
 モノがあることが問題、こういう視点は自分の中に無かったような気がする。
 〈・母親との面接の中でわかってきたことは、父親によるさまざまな行動の制限が存在すること。とくに妻(子どもの母親)に対しての制限が多い(たとえば、来客を好まない、子どもの友人が来ることにも拒否的、子どもが楽しそうにテレビを見ているとにらむ、妻の門限八時、妻の行動チェック、掃除のでき具合をチェックするなど)。しかも、夫は制限のすべてを言語化するのではなく、機嫌が悪くなる、口をきかない、すねる、ふて寝をする、摂食をしない……などの反応から、意を察するようにというのが父親の言い分。
・父親は、会社では真面目できわめて仕事熱心。几帳面で部下の面倒見がよく、社内では評判もいい。(…)〉p174
 典型的なモラハラ。この時代はまだモラルハラスメントという概念も用語も無かったことがよくわかる。子どもの不登校の根底に家庭の問題がある、その家庭の問題としてこの父親が描写されているわけだが、河合ですら〈できるだけ母親を支えながら、だんだんと父親にも変わってもらうほかないでしょう〉と書いている。しかも書いた後に、〈子どもの不登校とか摂食障害などは、父親に変わってほしいと思ってやっているのではないかと思われるケースが少なくありません〉と書いている。著者自身が答えを知っているのに言語化できていない。この後時代が急速に進んだとも、河合だからこの早い時点でこの問題に気付いていたのだとも言える。
〈自分が意識化できることは言語化できます。私たちはそれを言語化しながら記憶し、統合し、その体験によってお互いに人とつきあっているわけです。だから、言語化という作業は(…)私たちが生きていく上でもとても大切なことです。
 だから、もっと深いこともかかわっているのだろうけれど、はっきりとは意識できないというものも、ある段階では可能な限り言語化していくことが必要です。しかし、あまり言語化を焦りすぎると、どうしても上滑りになって、深い部分が捨てられてしまいます。したがって、言語化する場合にも、どの程度まで表現できているかということをいつもわきまえていなければならないでしょう。あるいは、それをいつ、どのように表現するかということも重要です。
 私たちの言語表現能力には限界がありますから、実際の体験、実際に起こっていることのほんの一部しか表現することはできないはずですが、いったん言語化されると、あたかもそれがすべてであるかのような錯覚を招きがちです。だから、つねにそういうことを踏まえていないと、大きな間違いをおかすことになります。
 また、言語化することにあまりこだわりすぎると、それよりずっと大事であるはずの、その人が生きていること自体のほうがおろそかになってしまいます。
 もっとも大事なのは、その人がいかに生きているかということであり、カウンセラーにとってもっとも重要な仕事は、その場をどう提供していくかということです。〉p200~201
 言語化について。カウンセリングだけではなく、言語文化全てについて言えることだと思う。
〈(…)外でバリバリやっている人の夢には、その人の盲点とか裏側が出てきますから、それをいちいち覚えていて、あれこれ考えていたら日常生活ができなくなります。そこで心のはたらきとして、そういうのをほとんど忘れてしまうわけです。だから、これはむしろ当たり前と言っていいでしょう。
 (…)どうも人間には内側を見るほうが好きな人と、外を見るのが好きな人とがいるような気がします。自分の内側を見る傾向がある人は夢で考えるし、自分の視点が外の世界に向いている人は、現実の中で考えるということではないでしょうか。したがって、夢を見るかどうかということを、それほど深く考える必要はないのではないかという気もします。〉p202
 私は夢は見ない。というか見ているはずだが、目を覚ました瞬間に全て消えてしまう。あるいはうたた寝の時など、考えていることなのか夢なのか分からなくなる。こういう本を読むと自分の夢に興味が出て来る。
 〈うちの庭に蝶が飛んできたときに、「ああ、きれいなチョウチョだ」とは思うけど、あれを「ぼくのチョウチョだ」とは言いません。夢もそれと同じではないかという気がします。つまり、あらわれてきたものを見るだけであって、自分が見たことは事実ですが、それを自分の夢と言えるのかどうか、ほんとうに自分の心がつくっているのかどうかさえ、はなはだ疑問に感じてしまいます。〉p204
 夢についての美しい描写。自分が見たものというより、自分に訪れてくれるものとして夢を捉えている。
〈もっとも困るのは、ある事例研究を読んでいたく感激し、「あの方法がいちばん正しい」とか、「あれしかない」とか思ってしまうことです。これはよく起こっていることですが、末梢的なところを普遍化するというのがいちばんこわい。微妙な人間の心をあつかうときには、よほど注意しなければなりません。〉p217
 「末梢的なところを普遍化」ということの危険性、覚えておきたい。

講談社プラスα新書 2000.3.  740円(税別)

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