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魚村晋太郎『バックヤード』

 日常の風景を描きながら、その底に淀む人間の複雑な心理を詠んだ歌集。自然を背景にして、根源的な生と性に思考は及ぶ。官能を覚まされるような歌に強い印象を受けた。禍々しいカバーの絵がこの歌集の雰囲気と良く合い、相互に引き立て合っている。

賢明な距離をたもつててらしあふ花水木、夜の肩にふれたし

 街路樹として植えられることの多い花水木。木と木の間は適切な距離が空いている。それは人間の設定した賢明な距離なのだろう。花の時期は木々がお互いを照らし合うようだ。自分もある人との間に賢明な距離を保っている。しかし時には相手の肩に無性に触れたくなるのだ。

鳥たちにはまだ欲しいものがあるらしく午(ひる)の疎林の空によびあふ

 リビア内線に関わる軍事介入、空爆の歌が続いた後、この一首が置かれている。生きるために強欲な鳥たちが昼時の疎林の枝々でまばらに呼び交わす。それだけの風景だが、「まだ欲しいもの」が決して満ち足りることのない人間の欲望を表しているようで、読後落ち着かない気持ちにさせられる。

ひかり奪ひあつたかたちにふゆの木は裸身をさらす さうしてひとも

 冬の木が葉を落とし、枝のみになっている。それを裸身と捉える。木は一本ではなく数本で、それぞれがお互いの光を奪い合ったかのように、全く枯れたような姿に立っている。人もお互いに触れ合うことでお互いの光を奪い合うのではなないか。そして関係性が終わった後、裸身をさらして立ち尽くすのではないか。

まだなにかをわすれたいのかゆりの木はからだをひらく五月の雨に

 二句切れとも三句切れとも取れる。二句切れなら何かを忘れたいのは作中主体、三句切れならゆりの木、つまり他者だ。雨の中咲くゆりの木を見ている作中主体。花が咲くことを「からだをひらく」と官能的に捉える。もう全て忘れてしまった。しかしまだ何かを忘れたいのか。一体何を。

壁は俺自身であれば夏蔦のやはらかに這ふあさの白壁

 白い壁に朝の日が射している。壁は夏の日を反射し、白く輝くようだ。その白い壁に若い夏の蔦が這っている。柔らかな緑の蔦に絡まれて、壁自身が新しく、柔らかくなったようだ。まだ全体を蔦に覆われてしまったのではなく、蔦の緑と露出した壁の白が美しいコントラストを成している。自分と相手の関係性もまたそうなのだ。

しなければそれですんだ、といふやうにふゆぞらを縫ふ百舌たちの声は

 百舌たちの声は実際には人間にとって何も内容を成していない。しなければそれですんだ、というのは主体の心の中の声だ。もう終わったことだ、という諦念と、本当にこれで済んだのかという疑いの気持ち。百舌の鋭い声が針のように暗い冬空を縫って行き交う。

消した火をふたたびともす(同じ火ぢやないけれど)春の闇はやはらか

 火を消すように一度自分の中から消した思い。情欲かも知れない。もう一度掻き立てるように火を灯す。火は灯りはしたが、以前と同じ火ではない。相手に対する感情も欲望も以前と同じではない。それらを吸って、春の闇は柔らかに主体の眼前に横たわっている。

死後の時間のながさもひとりづつちがふ(さうなのか)舌で無花果を割く

 上句は誰か他人の言葉なのだろう。死後にも時間があり、それは一人ずつ長さが異なるのだ、と。それに対して主体は疑問を感じている。その時間が終わった時はどうなるのか。しかしそれを口に出さずに、そうなのか、と心の中でだけつぶやく。舌では無花果を割きながら、声に出さずに考えているのだ。結句は実際の動作かも知れないし、性愛の喩かも知れない。

風にのる翼のかたさ、言はないでゐるこのこともいつか忘れる

 鳥が風にのって滑ってゆく。翼は堅くしまって見える。鳥の姿が消えて後の空間。自分の心の中のように空漠としている。今、言わない方がいいだろうと思って心に秘めていることがある。それを言わないのはかなりの努力を要することなのだが、それも一時だけのこと、いつかは、言う言わないで迷う元になった出来事自体も、忘れてしまうのだ。未来に対する諦念だが、それで今が楽になる訳でもない。

恋人とかではないひとと火のなかにくづれる榾を視た日のほてり

 「とかではない」の「とか」が効果的に使われている。深い関係性ではない、けれども火の中に崩れていく榾を視ているとお互いに身体が火照るような感覚を覚えた。「視た」が子細に眺めている様子を表す。「火の中に崩れる榾」は実景でもあり象徴でもあり得る。囲炉裏か竈の中で燃えさかり、形を崩してゆく小枝。見ていて、なにかの箍が外れるような気持がしたのだろう。

書肆侃侃房 2021.3. 2200円+税

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