詩歌が読まれない理由(後半)【再録・青磁社週刊時評第四十三回2009.4.13.】

詩歌が読まれない理由(後半)   川本千栄

(以下引用)
谷川俊太郎 人間がポエジーを求める欲求というのは、デジタル時代になればなるほど深く強くなってくると思うんだけど、現代詩ではないところで人はその欲求を満たしている気がする。
穂村弘 それはたとえばポップスなどに代表されるものですか。
谷川俊太郎 たとえばそうです。とにかく薄められた詩が蔓延していると思う。連ドラは叙事詩みたいなものだし、ポップスは叙情詩に近いわけだし。それから美術や短篇映画の世界でも、詩的なものは本当にたくさんあると思うんです。そういうものに拮抗するだけの強さを、現代詩はもっていない。
(以上引用)

 つまり、穂村吉川に対して問いかけても話がかみ合わず、田中がその問題意識の共有を表明した「もっと読まれてもいいのに、魅力があるのに読まれていないのはなぜか」という疑問に対して谷川は、「薄められた詩」に対してすら拮抗する強さがない、つまり「魅力が無いからだ」と言い切っているのである。まさに身も蓋も無い答えだが、これは詩歌に関わる者は持っていていい自覚なのではないか。
 穂村の問題意識を無化するような谷川のそうした返答に対して更に穂村は、その中で例外的に谷川が読まれている、その違いは何か、あるいはそれ以前に、もっとあけすけに、なぜ作り手として自分が谷川のようなオーラを持ち得ないかを聞いている。それには谷川自身も即答しておらず、資本主義の世の中で書いてきたから、(詩に)俗なところがあるから、などと答えている。それだけがもちろん理由ではないだろうが、消費を意識する、俗である、いう側面は、詩歌に関わる者に美点として受け入れられてこなかったことは確かだろう。
 他にも、歌壇でよく問題にされる事柄に関連がある話題もあった。谷川は、自分を空っぽにして巫女的に意識下から来る言葉を待つと言っていたが、そうした発言は短歌の「私性」に対して新しい視点を与えてくれるだろう。また、自分の書き物で餓えた子供を助けようなどとは考えない、それより金を出す、といった話は、社会詠のあり方を考える一つの糸口になるだろう。
 「穂村弘」という特集において、谷川俊太郎はゲストであったはずだが、未だ答えを見出せない穂村が、谷川に質問して答えを求めている印象を受けた。あきらかに主客が転倒しているのであるが、短歌が人気の無いジャンルなのが嫌だという穂村の感覚には私はある種の共感を覚えるし、谷川の回答は極私的な回答であったかもしれないが、それを読んで、短歌への迷いや疑問に対して考える視点を与えられたような気がした。
 さらに「詩にはメッセージ性はない」等の、詩歌というものの本質を垣間見せてくれるような発言が多々あった。ご一読をお勧めする。

(了 第四十三回2009年4月19日分)


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