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黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』

 第四歌集。博多湾での水質検査の場面から歌集は始まる。妻と幼い子との三人家族の日々。子を得たことで生命の偶然性を知り、その偶然性に圧倒されつつ詠う。身の回りの自然を確かな描写力で描き出す。身体を通じて自己と他者を描く仮借無い視線がある。具体の強さを感じた一冊だ。 *〔 〕内は詞書

われはわが生を知るのみ白光の奥へ奥へと下りゆく水深計(レッド)

 子供を得たことで子の生を自分の生活の内に抱えることになった。しかしわが子と言えど一人の人格であり、その生を全面的に知ることはできない。いや、もしかしたら垣間見ているだけで、本当は人の生など知りようが無いのかもしれない。朝の光の中を水深計が海の底へと下りてゆく。その動きに自らの心の動きを重ねる。

手に取れば甲蟹(かぶとがに)は身を反らしたり海に立つとき吾もをさなし

 上句の甲蟹の動きは、実体験あればこその描写だ。生きた化石と言われる甲蟹だが、海や地球そのものの年齢と比べれば何ほどの長さも生きてはいない。そんな甲蟹同様、海に立つ時は自分もまだ生物として幼いのだ、と作中主体は自覚する。

妻の辺に吾児はまだ寝てゐるだらう木の桟橋はかすかに揺れて

 海で測量の仕事をしながら、家にいる妻と子を思う。自分の目の前にかすかに揺れる木の桟橋のリズムから、眠りの海に漂う妻と子が浮かぶ。妻の「辺に」が良いと思った。妻の存在が大きなものとして主体にも子にもあるのだ。

線量を見むと瓦礫を崩すとき泥に染まりしキティ落ち来ぬ

 同じ連作の三首前の歌に〔北九州市は石巻の瓦礫二万三千トンを受け入れた。〕と詞書がある。石巻から北九州に運ばれ燃やされる、瓦礫の線量を確認しようと主体が瓦礫の山を崩した時、泥だらけのキティが落ちて来た。キティの、おそらく小さなぬいぐるみだろう。それを持っていた子供は主体の子と近い年齢かも知れない。その子供は無事なのか。泥に染まったキティからは何も分からない。

漂流の浮標(ブイ)にたたずむ青鷺のさみしくないか児を世になすは

 上句は風景描写であると共に序詞でもある。本来は川の鳥である青鷺が、海に浮かぶブイにとまっている。一羽の青鷺の孤独な姿に思わず「さみしくないか」と言葉が出た。自分に取って何がさみしいのか、とっさの自問に言葉が続いて「児を世になすは」と歌が成る。風景から韻律に引き出されるようにして内面が一首に定着していく。

秋冷のまぶしき領に船を出すわが生に妻の言葉あふれて

 「領」は領地、領海、領域を表し得る語。この場合、光が領している海のことと取った。秋冷の光がまぶしく治める領海に、船を出していく主体。その生に光のように妻の言葉が溢れている。海のきらめきと妻の言葉が呼応しあう、まぶしい一首。

〔除染作業はまず草を刈り、ひたすら地表の土を削る。〕黒き袋積み上げられてもう土に戻れぬ土がひた眠りをり

 震災後の東北を訪れた作中主体。除染作業、と言葉では聞くが、その作業は詞書に書かれたように人に取っても土地に取っても過酷な作業だ。その後、黒い袋に入れられて積み上げられる土。その土はもう土地に戻されることは無く、土として生きることは無い。結句は擬人法だが、この場合はこうしか言えないと思えるほどはまっている。

寝かしつけつつ寝入りたる翌朝を叩き起こさる絵本の角に

 子供を寝かしつけながら親も眠ってしまうことは多々ある。そして元気な子供に起こされる。起こす時は親の疲れにも何も容赦無く起こす。その上、この一首の場合は、絵本の角で父親である主体を殴りつけて起こしているのだ。もちろん、パパと遊びたい一心で子に他意は無い。親は文字通り「叩き」起こされながら、怒る訳にもいかないのだ。

ママあつた、と帰宅の妻に児は笑ふ在るか吾らは〈家〉の葦原(あはら)に

 言葉を話し始めた幼児。帰ってきた母に、ママいた、ではなく、ママあった、と笑いながら言う。その言葉を聞いた主体は、自分達家族が〈家〉という「葦原」に存在するのか、と思い当たる。葦原は日本の美称である「葦原の瑞穂の国」からの連想だろう。人類最初の家族に自分たちをなぞらえているような印象も受けた。

生くるすなはち訃を忘れゆく潮速き海峡を児はまぶしみて立つ

 初句七音、二句切れと取った。生きるとは人の訃報を忘れゆくこと。自分の生を生きねばならない。潮速き海峡は実景でありつつ、人生の喩でもあるのだろう。その海峡の光を子はまぶしがりつつ立っている。知人の訃報と育ちゆくわが子と。海峡はまた、二つの土地、つまり二つの世界が出会うところでもあるのだ。

書肆侃侃房 2021年2月 2000円+税

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