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野田尚史『はじめての人の日本語文法』(くろしお出版)

 国文法ではなく、日本語文法。日本語が第一言語ではない人に対して日本語を教える時の文法だ。この本は先生と何人かの生徒たちが、実際の文を取り上げて正しいか正しくないか、なぜ正しくないのかを論じる形式で書かれている。著者の大学の授業に、生徒として参加しているような気持ちで、登場人物たちと一緒に議論しているような臨場感が味わえる。例文で挙げられる文も、あるあるな間違いを含んでいたり、それはOKでしょ?と思えるものも。初版1991年なので、言語事情が変わっていることもあるだろう。また、地方や個人で正しい正しくないには差があることもこの本では語られる。
 第1章 品詞 第2章 格助詞 第3章 活用 第4章 ボイス 第5章 人称 第6章 テンス の順に無理なく理解が進んでゆく。各章の最後に復習・発展・研究がついているので、実際にこの本を片手に日本語文法を極めていくこともできるだろう。初心者の読者としては、復習の答えは載っていて欲しかった。

 以下は気になった部分の個人的忘備録である。

第1章 品詞 より
先生〈「見るのが好き」の「の」は、文のようなもの、たとえば「テレビを見る」を名詞にする働きをするもので、準体助詞とか名詞化辞などとよばれるものです。「こと」も「テレビを見ることがありますか」のように、同じ働きをします。「先週の旅行」の「の」は、「私の車」「夏のバーゲン」の「の」と同じで、連体格助詞などと呼ばれるものです。〉P.11
 最初の「の」は、すごく大きな働きをすると思いつつ、今までの学校文法ではそんなに詳しく教えていないのではないか。ちゃんと名前があるのだな。次の「の」はある程度教わったような気がする。

生徒〈動詞の後に格助詞がすぐ続くことはないというお話でしたが、「負けるが勝ち」では、動詞「負ける」の後に格助詞の「が」が続きます。〉
先生〈「負けるが勝ち」とか「行くがいい」のような例ですね。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」というのもよく似た例ですね。だけど、これらはみんな文語的な表現でしょう。文語では「見るの」とか「見ること」とか言いたいときに「の」や「こと」を使わないで、動詞などの連体形を使えば、それで済んだんです。「テレビを見るのが好き」だったら、「テレビを見るを好む」とかね。「負けるが勝ち」はそんな文語表現の名残だと言えます。〉P.11
 現代にも文語表現は生きている。現代語(口語)だけで現代人が書いたり話したりしているわけではない、一つの例だと思う。

生徒〈ていねいに言うとき、動詞には「ます」をつけるけど、「形容詞」には「です」をつけるというような。〉P.13
 母語話者には自然に使え過ぎて、意識していないところだ。

生徒〈日本人が「違かった」と言うのを聞いたことがありますが。
先生〈(…)「違う」は意味的にも動作というより状態を表しますから、活用も形容詞的になったのだと思います。といっても、否定の「違くない」「違うくない」はあまり使われないみたいですし、現在形を表す「違うい」もほとんど使われないし、「違い」になるとぜんぜん使われないようです。〉P.15
 これは今揺れているところだろう。「違(う)くない」は増えているように思う。

生徒〈(…)過去形は、ナ形容詞は「きれいだった」と「だった」にして、イ形容詞なら「きたなかった」と「かった」にするということですね。〉
生徒〈「きれい」は「い」で終わるので、イ形容詞と間違えやすいですね。P.17
 学校文法で習う「形容動詞」は「ナ形容詞」という考え方になっている。「形容詞」は「イ形容詞」。次項のナ形容詞と名詞の区別、というのも学校文法とは大いに違う。

〈研究2 イ形容詞を名詞にする接尾語「み」「さ」(たとえば、「暖かみ」「楽しさ」)や、イ形容詞をナ形容詞にする接尾辞「げ」(たとえば、「寂しげ」)がそれぞれどんな形容詞につくか、また意味や用法がどう違うかを、できれば実例も調べた上で、整理してください。〉P.40
 各章の最後についている研究。これに沿って考えるのは面白そうだ。(大変そうだが。)特にこの「み」「げ」はこの本が書かれた以降、急激に変化した部分ではないだろうか。

第2章 格助詞 より
生徒〈動作の動詞でも「広島市に生まれる」とか「下町に生きる女たち」とか「野辺に遊ぶ」とかいう言い方ができますが。
先生〈なるほどね。まあ、それは文語的な表現だからでしょうね。文語では動作の場所を「に」で示すことがあったんですね、その名残でしょう。〉P.57
 文語表現の名残のまた別の例だ。

第3章 活用 より
先生〈はっきり言って、これからますます「見られる」が衰退して、「見れる」が進出してくるでしょうね。言語がどう変わっていくかは予測するのがむずかしいんですが、「見られる」が「見れる」に変わっていくのは、間違いありません。
 どうしてそうなるかというと、「(ら)れる」には、主なものだけでも、受身、可能、尊敬と3つの使い方が集中していて、過重負担なんですね。だから、3つをなるべく違った語形で表したいという力が働くからです。それから、五段動詞のほうは受身は「書かれる」で可能は「書ける」と違う形になっているのに、一段動詞のほうはどっちも「見られる」だとアンバランスで気持ち悪いんですね。〉P.96
 「ら抜きことば」は言語変化上の必然なのだ。「らアリことば」に対する「失われた美しい日本語」などの感覚は、慣れに対する個人の感傷に過ぎない。

第5章 人称 より
生徒〈最近「犬にえさをやる」じゃなくて「犬にえさをあげる」と言う人が増えたというので問題になっていますが。〉
先生〈それは(…)敬語に関係がある「やる」「あげる」「さしあげる」の使い分けの問題ですね。(…)「あげる」は「さしあげる」とも「やる」とも対立していてバランスがよくないですね。それで、だんだん「やる」がすたれてきて(…)〉P.179
 過剰に丁寧な表現だと思っていたが、言語の変化の過程に則った現象だったのだ。

第6章 テンス より
先生〈(…)タ形の特殊な用法としては、忘れてしまってもう一度聞くときの「何時からだったったけ。」のほかにも、忘れたことを自分で思い出したときの「あしたは会議の日だったなあ。」とか、それから、普通の人はあんまり使いませんけど、命令の「どいた、どいた。」とか、いくつか挙げられます。〉P.216
 深掘りすればするほど奥深い「タ形」。

生徒〈(…)未来のことを聞いているのに過去形を使っちゃえるというのは、日本語が英語に比べて、論理より情緒を大事にすることばだからと考えていいですか。谷崎潤一郎だったか、たしか、日本語のテンスの規則は好きなように使えると言っていたと思います。〉
先生〈そうですねえ、言語の専門家じゃない人は、しっかり調べないで、すぐそんなふうなことを言うんで困るんですよねえ。特にほかの分野で有名な人だと、言語に関しては素人でも影響力が大きいからねえ。〉P.217
 爆笑。そういうこと言ってそうだ、谷崎潤一郎。芸術家と学者の落差、面白過ぎる。

1991.3. 2200円+税10% くろしお出版



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