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高野公彦『明月記を読む 上』(短歌研究社)

 藤原定家十九歳から七十四歳までの日記『明月記』を読んでいく書。副題に「定家の歌とともに」とあるように、定家作の歌を中心にその時代の他の作者の歌とも比較しながら、その美の特徴に迫る。堀田善衞の『定家明月記私抄』はもちろん引用されているが、政治的状況と中世の詩歌の在り方を考察する堀田のような方法は取らず、あくまで歌を中心に書かれている。地の文も旧仮名遣いによっており、それだけでも、新仮名遣いを否定するなど、高野の目指す方向が明確になっている。
 途中、現代短歌の未来を不安視し、悲観するあまりか、現今の歌人への提言というか嫌味がちょくちょく挟まれるのが気になる。

以下は気になったことのみ。

〈「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」
(…)作者の視点について考へよう。「見わたせば」とあるが、いつたい作者はどこから浦を眺めてゐるのか。考へられる場所は、浦の外れのあたり、または苫屋の中、あるいは海の上。この三つのうちいづれか。私の読み方では、作者の視点は海上にある。さう解する方がいちばん絵画的効果がある。いはば超越的視点から景色をゑがいてゐるのだ。ほかに例歌を挙げよう。
「旅人の袖ふきかへす秋風に夕日さびしき山のかけはし」
 後年三十五歳の時の作だが、これも作者は超越的視点(たとへば谷合ひの中ぞらのやうな所)から風景を眺めてゐる。空想で歌を作る場合、視点はしばしば日常的な地点から離れ、超越的な視点に据ゑられるのである。〉この視点の話は面白かった。現代の空想的な歌にも言えるのではないか。

〈「夜に入り、百首を読み上げられる。(良経の御作、俊成、自分、計三百首なり。)事が終つて即興の狂歌(ざれ歌)が行はれる。夜更けて共に帰宅す。」〉明月記を高野が訳したもの。この狂歌は後でも出て来るが、興味深いところだ。

〈「ゆふだちのくもまの日かげ霽(は)れそめて山のこなたをわたる白鷺」「夕立が通り過ぎて、雲間から日差しが漏れ始めた。山のこちら側を、白鷺が日差しを浴びながら飛んでゆく」と美しい自然の一齣を描写してゐる。のち、この一首は玉葉集に入集した。〉ほとんど同じ光景を見た後だったので印象的だった一首。写実詠と言ってもいいだろう。前述の十題百首、定家三十歳の作。

〈「雲さえて峯のはつ雪ふりぬればありあけのほかに月ぞ残れる」「冬」の歌。大意は、「寒さで雲も冴えわたり、峯に初雪が降つた。空には有明の月が浮かび、雲じたいも白く光つてゐる。あたかも、もう一つの月があるかのやうに」。/生き物の気配はどこにもない。雲と月と雪があるのみの、白の風景である。やや理屈ぽい面を除けば、荒涼たる美を描いた斬新な作といへよう。かうした冬の荒涼美を開拓したのは定家である。〉高野の挙げる秀歌には冬のものが多い。

〈「霜まよふ空にしをれしかりがねのかへる翅(つばさ)に春雨ぞふる」これも「春」。冬のあひだ、さまよふやうに霜が空に満ちて、雁の翼は萎(しを)れてゐたが、春になつて雁は北を指して帰つてゆく。その翼を春雨がやはらかく濡らす。/飛んでゐる雁をクローズアップし、翼をストップモーションでとらへたのがこの歌の特徴である。その翼に、きびしい冬の霜と暖かい春の雨を重ねて写し出してゐる。これは一種の〈異時同図(いじどうづ)法〉といへよう。イメージが簡潔で豊かであり、大きな空間・時間を感じさせるところが魅力である。新古今集に入集。〉異時同図法は絵画の用語で、異なる時間を同じ画面の中に描くことである。そのため同じ人物が同じ絵の中に何度も登場して、連続した動作を表現する。日本の絵巻物は右から左に時間が流れる。ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井絵もこれにあたる。下記のサイトを参照した。(7世紀捨身飼虎図、12世紀伴大納言絵巻、16世紀システィナ礼拝堂。)写実的表現が完成すると、不自然なものとして廃れていったとのこと。(マンガのコマ割りはこれに繋がるが。)中世和歌の理解に必須の知識と思う。


〈花札には、日本人の美意識を象徴するやうな植物が描かれてゐるが、植物だけでなく動物も登場し、その中に鹿と猪がゐる。前者は〈鹿(か)のしし〉、後者は〈猪(ゐ)のしし〉と呼ばれた。〈しし〉とは野山にゐる獣の総称である。〉ミニ知識。だから「鹿おどし」は「ししおどし」と読むのだな。

「このごろの冬の日かずの春ならば谷の雪げにうぐひすのこゑ」〈初冬〉という題のこの歌が後鳥羽院に思いがけず気に入られたことを受けて。
〈定家は「存外の面目なり」と喜ぶ。ただ、あれは狂歌みたいなもので、院が御覧になるなど予想もしなかつた、と記してゐる。「但し狂歌なり」とはどんな意味合ひなのであらうか。定家は「狂歌」といふ言葉をときをり使ふことがある。むろん、ふざけて詠んだ歌といふ意味ではなからう。正風とはいへない、手すさびに詠んだ軽い歌、ぐらゐの謙辞であらうか。〉この狂歌という言葉の使われ方がまだ後生とは違う感じだ。定家の使っていたような言葉の表すものが少しずつ変わっていったのであろう。

〈郢曲(えいきょく)とは、神楽・催馬楽・今様・風俗歌(ふぞくうた)など、謡(うた)ひ物の総称である。〉これもミニ知識。宮中には遊女や白拍子が持ち込んだようだ。後鳥羽院は大いに楽しんだようだが、定家はノッてない印象だ。

短歌研究社 2017.11. 2800円(税別)

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