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遠藤由季『北緯43度』(短歌研究社)

 第三歌集。現代社会を働いて生きていく一人の女性の日常を描く。理系の仕事をしている主体。男社会の中を一人で渡ってゆく日々が淡々と詠われている。タイトルは北海道旅行の一連から取られている。Covid-19が広がる前の日常から始まって、自分の身の回りを丁寧に描く歌が多い。植物を扱った歌に惹かれた。

前かがみに人々走らす広重の雨の角度を今窓に見る

 歌川広重「大はしあたけの夕立ち」だろうか。傘をすぼめたり、前かがみになって走るなど、雨の中の人々の様子を軽快に描いた浮世絵だが、何よりも雨を描いた激しい描線が特徴的だ。今、窓の外にそれと同じ角度で降って来る雨を見ている。江戸時代から現代へ時代が移り変わっても雨は変わらず降る。その雨を避けようと走る人々の気持ちも同じなのだ。

一生をかけ悔いることまだあらず鉄柵にからむ枯れ蔦は美し

 悔いることはある。しかし一生をかけて悔いるほどのことは、自分の人生にはまだ無い。鉄柵に絡みつくように執拗に悔い続けることは無いのだ。蔦は絡みついたまま枯れている。思いを遂げられなかったのだろう。そんな枯れ蔦を美しいと思う。激しく強い感情を美しいと思うのだ。

七十歳以後のわたしのために今働いている わたしよ元気か

 今のために生きている人はとても少ないだろう。70歳以後、貧困の内に老後を送りたくなくて、働いている人が多いのではないか。未来のために現在を食いつぶしているのだ。主体もそうなのだろう。今日を楽しむのではなく、今日は歯を食いしばって、来るかどうか未知の未来のために働いている。そしてその未来の自分に対して、元気かと声をかけているのだ。

悔しさに泣くことも減りあじさいはひとつきりでは終らない花

 もっと若い時は悔しくて泣いていたこともあったのだろう。けれども今は人生の経験値も増え、悔しさに泣くことも減った。たった一つの方法を貫こうとするのではなく、色々なやり方も身につけた。紫陽花が次から次へと花毬をつけることに似ている。花の色もまた微妙に変えて生き抜いていくのだ。

なぜこんな重たい鞄を飽きもせずわが手は持つのか手ぶらの楡よ

 聖書のイエスの言葉を思い浮かべた。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。」重たい鞄を飽きもせず、というか持たざるを得ないから持って働いている主体。聖書に言われたように明日を思い煩わず、手ぶらで日々を過ごしている楡。そんな自由に憧れて楡に声をかけているのだ。

お手玉のなかの小豆は非常食祖母は語りき青蚊帳のなか

 昔、祖母とお手玉で遊んでいたのだろう。青蚊帳を吊ってその中でお手玉をしていた時に、祖母が、お手玉の中の小豆は非常食用で、食べるものが無くなったらそれを食べるのだと言ったのだ。祖母は戦時中に飢えた記憶を語ったのかも知れない。飢えた記憶の無い主体はただ驚きを持って聞いていたのだろう。そうした記憶を家族から聞いた者と聞いていない者では、過去に対する手触りが違うのではないか。

樫に似るほどにひとりでいることがうまい人なり本を読みおり

 堅牢な樫の木に似ている人。そして樫と同じように一人でいることが上手い人なのだと続く。一人を好むのではなく、一人でいるのがうまい。孤独を感じないわけではないが、自分の身の処し方を知っている。自分で自分の時間を使って、本などを読んでいる。決して誰もができることではないのだ。

この町には良いパン屋なしと思いつつそれから十年その町に住む

 この町には良いパン屋が無い。それはある意味、毎日の小さな楽しみの一つが無いということでもある。そう思いつつ、そのままその町に住み続けた。10年という長い年月が経った。毎日を小さく充実させることもできないままに年月がただただ早く流れ去ったのだろう。パン屋をカギに日常生活の起伏の無さを巧みに描き出した。

クローンの桜も桜の生(せい)を生き細き川面を蘂で埋め尽くす

 染井吉野は全て一つの株から作られたクローンなのだと話題になったことがある。クローンであってもその生は一つの生。桜の場合は一本の木の無数の花の、無数の花びらが一年に一度の生を際立たせる。そして最後に散っていく赤い蘂。川の両側に生えた桜の蘂が、川面を埋め尽くすほど大量に流れて行くのだ。クローンであっても季節に反応し、一回性の生を生きているのだ。

遠くても近くてもあなたと呼ぶのだろうあなたの傘に入ることなく

 はかない情趣のある歌。あなたの傘に入ることは無い。あなたと共に生きることは無いという喩だ。あなたとの距離感は遠い時もあれば近い時もある。とても近かった時から、今は遠ざかっているのかも知れない。それでも主体はその人を「あなた」と呼ぶ。今もそしてこれからも。あなたのことを見つめるだけで、並んで歩くことは無いのだ。

短歌研究社 2021.11. 2200円(税別)


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