見出し画像

奥村知世『工場』

 第一歌集。書肆侃侃房。工場を職場として、家庭では二児の母親として生きる作中主体。物にこだわり、目の前の物を描写し続ける作歌姿勢に強い感銘を受けた。その冷徹な観察眼と知性に満ちた言葉選びによって、生々しい現実が読者に手渡される。男社会で働く日々を通して、机上の論では無いジェンダー論が詠われる。「現場」をキーワードに、言葉に溺れる現代短歌に是非を問う一冊と思う。

鈍色のスクリューパーツをひとつずつブラシでこする子の歯のように

 工場での労働を具体物に即して詠う。「鈍色」が金属の手触りを感じさせる。スクリューパーツはおそらく回転する部品。汚れたら動かなくなるのだろう。人の手によってひとつずつ磨かれなければならない。丁寧に、磨き残し無く。それはまるで歯の生え始めた子供の歯を磨くような行為だ。子の歯を磨くように心を込めて金属片を磨くという喩ではなく、金属片を磨くように精密にドライに子の歯を磨くという喩なのだろう。

労災の死者の性別記されず兵士の死亡のニュースのごとく

 労災により死者が出る職場。危険な労働があることが示唆される。そんな労災の死者に関する書類には性別が記入されない。事故の経過などには詳細な説明があっても、死者の性別はそれに関係無いという判断だろう。それはまるで兵士の死亡のニュースのようだ。兵士は男性という前提で読む者を、シンプルな言葉で揺さぶる一首。

3Lのズボンの裾をまるめ上げマタニティー用作業着とする

 一般にマタニティウェアと呼ばれるものは労働に適していない。働くことに視点を置いたマタニティウェアも少しずつ売られつつある現在だが、工場での作業に適した物はどうだろう。主体は3Ⅼサイズの大きなズボンを履く。腹囲のためだ。その腹囲に合わせた丈では長過ぎるので裾を丸め上げる。オリジナルのマタニティ用作業着の出来上がりだ。適切なマタニティウェアが無いの何のつべこべ言わないのだ。それを着て飄々と仕事をこなす主体が格好いい。

しっかりと命の気配消しておくランチに添える固茹で卵

 今まで単に食べ物として見ていた卵は、命の元になるもの、命そのものだと気付く主体。妊娠しているせいもあるかも知れない。だからと言って卵を食べるのを止めるわけではない。しっかり固茹でにして、命の源ではなく、単なる食材に変えておく。意識の上でも。「命の気配消」すという把握が知的だ。鶏の命をもらって、自分の胎児を養うのだ。

まさに腹を切られつつ交わす会話なり「お名前はもう決まりましたか?」

 医者にかかった時、医師のドライさに驚くことがある。こっちが人生の重大な境地にいるつもりでも、医師にとっては日常茶飯事。この歌でも同様だ。主体の帝王切開をしている最中の医師が、主体と会話を交わす。産まれてくる子供の名前は決まっているかどうか。主体も部分麻酔が効いているので気軽に答える。医師も患者も腹が据わっている。「腹を切られつつ」という即物的な言葉に、出産に関するセンチメンタルな態度は一切無い。小気味がいい程強靭な精神だ。

あちこちがAEONになってゆくように私の暮らしに夫がなじむ

 気がつけばどこのスーパーマーケットもイオンになっている2022年現在。さりげなく生活に入り込み、暮らしに関する色々な事物を提案してくるイオン。そんなイオンに似て、いつの間にか「私」の暮らしに入り込んでいる夫。夫をイオンに喩えた歌が今まであっただろうか。他のスーパーよりイオンがいいと言ったわけではないのだが、いつの間にか暮らしの背景化しているのだ。しかし無ければ無いで困る存在。売っている物で必要な物は「私」が選ぶのだが、売っていない物は選べない。イオンと「私」の関係はなかなか一筋縄ではいかない。

吐瀉物にまみれ「抱っこ」と泣く息子どちらかといえば理性にて抱く

 幼い子供はすぐ吐く。上手に吐いてくれればいいが、吐瀉物まみれになることもしばしばだ。体調の悪さと吐瀉物の気持ち悪さに「抱っこ」と言って泣く息子。愛情はあっても吐瀉物ごと息子を抱きしめるには少しためらいが生じる。でも抱かなければ子供を傷つける、そうした理性による判断で抱っこしてやる。この一瞬の心の中の逡巡を冷静に見つめ、そして冷静に歌にする。母の歌として新しいのだろう。新しくあってはいけないと思う。もっとこうした冷静な母の歌が詠まれて欲しい。

パレードの山車で手を振る姫たちのスカートの中の安全ベルト

 ディズニーランドのパレードだろう、ディズニープリンセスたちが山車に乗って可憐な笑顔で手を振っている。しかし何も防御せずに手を振ったりすれば山車から転がり落ちる危険性がある。軽やかに愛想を振り撒きながらも彼女たちはプロ。スカートの中の安全ベルトで山車の一部にがっちり身体を結び付けている。脚はたくましく山車の床に踏みしめられているのだろう。夢を売りながらも現実の安全は確保しているのだ。お伽の国の姫たちが、現実の世界を渡ってゆく女たちの喩のように見えてくる。

耳栓の刺さる深さが違う耳並んで進む解体工事

 解体工事は耳をつんざくような大音響がするのだろう。耳栓は必須だ。しかし体格によって耳の穴の深さも違い、耳栓の刺さる深さも違う。主体は自分よりかなり体格のいい人たち、おそらくは男性たちと並んで解体工事をしている。それを外から描写するのではなく、「耳栓の刺さる深さ」というとても細かいところに目をつけて詠った。同時に、不快な大音響の中で働く職場の過酷さも伝わるのだ。肉体労働を詠うことを通じて、作者の知性の鋭さが分かる一首。

内線に「今は現場」とモーターの音にかぶせて叫んで返す

 職場の内線電話。デスクワークと現場の両方をこなす主体は、デスクワーク中を想定して電話をかけて来た相手に「今は現場」と叫ぶように返事をする。現場のモーター音にかき消されないように大声をあげるのだ。今は現場、モーター音がうねり、自分はゆっくり話などしていられない。話は後で、今は目の前の作業に集中するのだ。作中主体の生きる態度そのものを表すような歌。職場でも家庭でも、身体を使って現場を現実を生きる。『工場』は現代短歌に「現場」を持ち込んだ一冊だ。

書肆侃侃房 2021年6月 1700円+税

この記事が参加している募集

#読書感想文

188,902件