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『にず』田宮智美

第一歌集 402首 東日本大震災後の日々を生きる。女性であること、一人であることを強く意識した歌集である。淡々と日々を過ごしながら、底に籠る孤独感を詠い続ける。

仮住まいだと思うから暮らせてる 繋ぎと思って仕事もできてる

自分が今住んでいる家をほんの短期間の仮住まいだと思う。仕事も同じく短期間の繋ぎ仕事だと捉える。そう思わなければ心が保てない。これが一生の家で仕事だと思ったらとても。ここは自分の居場所ではないと思うからこそ救われる。逆説的な真理。韻律も句跨りで二句の最初に強い「だ」が来て、心情を強く訴える。

(そののちにこわれてしまう)約束がひかりであった避難所のころ

もう今は「そののち」なので約束が壊れてしまったことも知っている。それでも避難所での暮らしは、その約束が自分の生活に射す光であった日々だったのだ。生きているだけでありがたかった日々はすぐ日常の当たり前に取り込まれる。ここを出たら会いましょう、という約束を支えに生きていたのに、避難所を出たら日常に紛れて、その時約束した人はなおざりになってしまう。苦い現実を抉り出した歌。

履歴書を書く 震災時知らぬ人にまぎれて床に寝た図書館で

震災後、生活のために働かなくてはならない。職業安定所も仮住まいなのだろう。図書館の一部に移転しているのだ。そこで職を求めるために履歴書を書く。そこは震災時に避難所でもあった。あの床は、あの日知らない人に紛れて床に寝て過ごした場所だ。生々しい記憶を振り切るように淡々と履歴書を埋めていく作者。

こんなはずじゃなかった今を生きているただ生きているまた朝がくる

震災が無かったら、自分はこんな生活をしていなかっただろう。こんなはずじゃなかった。その思いばかりがぐるぐると頭を駆け巡る。いつもその思いから逃れることができないのだ。けれど時間はこんなはずにもどんなはずにも関わらず流れ、また朝が来る。ただ生きているだけの一日がまた始まるのだ。震災を経験しなかった人にもやはり「こんなはずじゃなかった」日常を生きている人が多くあり、共感を呼ぶのだと思う。

くちびるで舌で触れるということの、あなたの(わたしの)獣を怖る

愛し合う始めに唇で舌で相手に触れる。少しずつ高揚する気持ちに怯える自分がいる。まるで獣のようだ。それは相手に対して感じる怖れであるが、同時に自分の中にも目覚める動物のような本能に対しても怖れを感じているのだ。

君と呼ぶ君のいつしか入れ替わりもう満開のひまわり畑

大切な君。心の中で君と呼ぶ人。しかし、いつまでも同じ人を愛していくことができないこともある。君と呼んでいた人との関係は過去になり、また新しい人を君と呼び始める。季節もいつの間にか夏の盛りになり、ひまわり畑が満開になっている。明るく咲き誇るひまわりと同じように、心も明るく開放的になっているわけではないようだ。一首からは、どこか寂しさが漂う。

こんな仕事こんな仕事と思いつつひと月居れば給料日来る

こんなはずじゃなかった、繋ぎと思う仕事。作者の仕事に対する気持ちは一定だ。耐えられない、つまらない仕事。そんな仕事を日々何とかこなしている。そして給料日が月に一度来ると、少し心が慰められるのだ。それでもまだ生きていける、何とかやっていける、という無意識の安堵だろうか。

素麺を茹でる速さで夏は過ぎ少し老いたるわたしが残る

夏の素麺はすぐ茹で上がる。便利な食材だ。暑くて食欲もあまり湧かないので素麺を茹でてあっさり食事を済ませている人は多いだろう。そのすばやく素麺が茹で上がるスピードで同様に夏が過ぎてしまう。そしてそこに残るのは一夏分だけ老いた「わたし」なのだ。ちょっと面白い喩えで寂しい認識を明るくしている。

「死にたい」と隣りで笑う同僚に「えー」と笑うキー叩きつつ

同僚の生活も充実していないのだろう。笑いながら「死にたい」などと話しかけてくる。返事のしようがなく、「えー(まさか、そんな)」とだけ答えて笑っている作者。傍目からは楽しく会話しながらどんどん仕事を進めているように見えるだろう。おそらくそんな風景は珍しいことでもないのだ。現代の索漠とした職場風景を切り取っている。

セキュリティコードかざして開く戸のいつか忘れる暗証番号

現代ではPCなどの機器や器具をパスワードやセキュリティコードで管理するようになっている。「開く戸」だからロッカーのようなものかも知れない。日々それを使っている間はその番号は忘れては物事が始まらない大切な番号だが、いったんその場を離れて関係無い間柄になってみると、何の意味もない、何の役にも立たない数字の羅列でしかないものだ。それに頼って過ごしている日々。いつかどうでもよくなると分かりながら。現代の日常生活に生まれる小さな心動きを巧みに捉えた。引き締まった韻律が内容とよく合っている。

現代短歌社 2020年7月 2000円+税



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