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toron*『イマジナシオン』(書肆侃侃房)

第一歌集
 2018年から2021年の作品を収める。インターネットなどで活躍する作者のセンスの光る歌の数々。きらめく言葉の底に現代を生きる若者の孤独感が流れている。

いつもより派手な靴下履いてから立ち上がるわたしと日曜日
 意外に日曜日という日を始めるのは気合いが要る。いつもより派手な靴下で自分の気持ちを上向きにして、そして立ち上がる。わたしが立ち上がるのと同時に、日曜日という一日が立ち上がる。日曜日の方でも作中主体に合わせて気力を高めているかのようだ。

そういえば君も男か今さらに手のひら合わせ比べてみては
 あまりにも身近過ぎて君が男であることを強く意識してこなかった。そういえば、と思い出したように、君が男であることに意識が行く。手のひらを合わせて比べてみれば、明らかに君の手のひらが大きい。腕力も体力も主体より上回るのだろう。しかしそんなことを普段は意識させない君。二人の心地良い関係が分かる一首だ。

秋日傘つつと回してここにいるわたしはわたしの地軸でいいよ
 まず、秋日傘という季節を表す語がいいと思った。それを回す時の様子を「つつと」と表現しているのも雰囲気が出ている。そしてきっぱりとした下句。秋日傘の柄のように、私は私の中心となる軸なのだ。他人を軸にして、他人の基準で考えたり行動したりしない。秋日傘がたおやかだが強い意志の象徴となっている。

春一番ピアスホールに吹き抜けてあなたなしでも春なのだろう
 春一番の荒々しさとピアスホールという小さな穴の対比が面白い。そんな強い風が吹き抜けていく主体の耳。いや、全身を吹き抜けて行ったのだろう。あなたがいなくて、心に空虚な穴が空いたような気分なのかも知れない。その穴を吹き抜ける春一番が、あなたなしでも春が来ることを教えてくれる。季節は人間の感情にお構いなしに移っていくのだ。

一対のナイフとフォークのようになり傷つけ合っても並んでねむる
 ナイフとフォークは一対であり、お互いが無いと成り立たない。主体と相手は、そんなナイフとフォークのようになった。無くてはならないお互いではあるが、どちらも鋭く人を刺すことができる刃物だ。ここまでは比喩なのだが、下句に共感した。お互いの心を傷つけ合った後も、引き出しにしまわれるナイフとフォークのように並んで眠る。眠らざるを得ない関係性なのだ。

身体にも水脈はありカーテンのレースの影になぞられている
 血液やリンパ液というと生々しいが水というと涼しい印象だ。身体にくまなく張り巡らされている水脈。そんな水脈を秘めた肌の上に、カーテンのレースの影が映る。まるで体内の水脈をなぞるかのような繊細な模様。身体の表面の影と体内の水脈が呼応するような美しいイメージが浮かぶ。

書くじゃなく打つと云うときだけ文字は誰かの窓を叩く雨粒
 手書きの時は「書く」、PCやスマホの時は「打つ」。字を記す時の表現も時代を経て変わっていく。「打つ」時は、液晶画面に向かって打っていく。液晶画面はまるで窓のようだ。この窓の向こうには何千万人もの、そして一人一人の誰かの窓がある。主体が文字を打ち込む時、その文字は雨粒のように誰かの窓を打つ。液晶画面に字として現れるのだ。繋がりたい心が雨のような文字を挟んで窓と窓とで向かい合う。

花びらの部分で支える花びらがきれいだ待ち合わせた駅前の
 初句二句、確かに花ってそうだなと思う。何かに支えられているのではなく、花びら自身が自分の重みを支えているのだ。そんな花をきれいと思う。主体も花に心を重ねているのだろう。待ち合わせをしているのだから、親しくしている相手がいる。しかし自分は自分を支える存在でいる。そんな心の在り方が花に対する見方に表れているのだ。

ジャムの蓋いまなお固く大人でもひとりで老いてゆくのは怖い
 子供の時に一人では開けられなかったジャムの蓋。大人になった今でも固い。今でも誰かに開けてもらわなければならないのだ。開けてくれる人が誰もいない状態で老いていかなければならないのだとしたら。生活の場面によくあるちょっとした不如意が、長く続く人生への不安となって影を落とす。鮮やかなジャムは、主体の手が届かないまま、ガラス越しに収まったままなのだ。

どうせ夏。みたいなテンションそのままで花火があれば両手に持った
 どうせ、という、低いテンション。花火をしないわけにはいかないけれど、それほど気分は盛り上がっていない。けれど、両手に持ってそれなりに楽しんでいる。後から考えて、あんな夏もあったな、と思い出すためのような場面だ。どこか醒めて、でもどこか寂しい、そんな夏の終りの空気を感じた。

書肆侃侃房 2022.2. 本体1700円+税

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