『現代日本語文法④第8部モダリティ』日本語記述文法研究会(くろしお出版)
モダリティに興味を持ち、モダリティとはそもそも何か、ということを知りたくて本書を手に取った。しかし本書は、一般的な読み物ではなく、日本語に現在あるモダリティを分類、分析し、どのような接続をし、どのような意味を持ち、どのような場面で使われるかを解説したものであった。おそらく日本語教師がおりおり手に取るタイプの参考書なのだろう。これを通読したわけだが、なかなか大変だった。とにかく日本語においてモダリティが占める重要度はよく分かった。意味内容以外のことはモダリティなんだと理解した。
以下、本書を読んで気づいたことを忘備的に記す。特に「*」=使えない用法、「?」=使えるか疑問である用法の中には、個人的に許容できると思ったものも多い。この本が書かれてから20年経っているというのもあるかもしれない。個人の感覚なのか、時代性なのか、分からないのだが、取り合えず、メモしておく。
〈文の表す意味は、命題とモダリティという2つの側面から成り立っているが、日本語の特徴は、この違いが文の構造に強く反映されるということである。基本的に、事柄的な内容を表す命題的な要素が文の内側に、モダリティ的な要素が文の外側に現れるという傾向がある。〉P2
つまり、命題+モダリティ=文、と取った。
〈感嘆文は、感嘆の気持ちを引き起こす誘因となる属性と、感嘆の中心になる要素とを含む。感嘆の中心になる要素は名詞によって表せれる。
・この花、なんて{かわいいんだろう/*かわいいだろう}!〉P82
これが英語なら、感嘆の中心になる要素は名詞と並んで形容詞・副詞となるところだ。
この本を読んだ最初の方だったので、なぜ例文の「かわいいんだろう」はよくて「かわいいだろう」はダメか分からなかった。通読した今、自分流に考えるに「の」は文についてその文を名詞化する。そして「の」は度々「ん」と記され、発音される。この例文も「ん」が「この花なんてかわいい」を名詞化していると取った。
〈「なんと」による感嘆文も名詞を中心として文が構成されるという特徴をもっている。感嘆の中心になる名詞が主題になる場合でも、文末は「の」や「こと」によって名詞化されることが必要である。
・*この花はなんとかわいいだろう!
「なんと」による感嘆文は、文末が「こと」で名詞化されるタイプと「の」で名詞化されるタイプに分かれる。〉P86
ここも付箋貼ってた。驚くのは私たちが話す時に「ん」を無意識に入れていることだ。たった一語の「ん」でも、前部分を名詞化するという働きがあり、私たちはそんなことをちっとも知らず、しかしそれでも「ん」が無いと不自然に感じると言うのが言語の不思議な所だ。
〈文末が「の」で名詞化されるタイプには、「なんと~のだ」と「なんと~のだろう」という2つの文型がある。〉P87
そして例文は「~んだ」「~んだろう(か)」が挙げられている。
〈形式自体が否定形になることは、基本的にない(例(1))。「なくてもよくない」が可能なのは、(2)のような質問文の場合に限られる。しかも、この場合は意味的に否定を表さない。
・*これから先のことを考えると、今日の話し合いで結論を出さなくてもよくない。・・・(1)
・もう夜も遅いですし、今日の話し合いで無理に結論を出さなくてもよくありませんか?・・・(2)〉P123
(1)は肯定文だとしたら確かに不自然だ。しかし上昇調で疑問文に使えば2023年現在なら伝わる。ただし相当親しい間柄だろう。丁寧に言おうとするとなるほど(2)のようになる。
〈話し手の、行為をしないという意向を表す場合(例(1))や、後悔・不満を表す場合(例(2))には「なくていい」は用いにくい。
・?明日は休みだし、今夜、僕は家に帰らなくていいよ。・・・(1)
・?そんなにきつい言い方をしなくていいじゃないか。・・・(2)
制御不可能な事態が実現しないことを許容する場合にも、用いにくい。
・?今夜は楽しい。このまま夜が明けなくていい。〉P125
この3つの例文に対しては、「なくてもいい」の方が普通だというのはよく分かるが、あまり違和感は感じない。
〈「ようだ」に見られる、連体形の比況用法は、「みたいだ」では許容されないことがある。
・芸能人が着る{ような/*みたいな}服がほしい。〉P167
全く違和感無し。この「みたいな」はこの本が書かれた当時よりかなり用法が広がっている印象だ。
〈「という」も、伝聞的な意味を表す表現である。書きことばで用いられることが多く、普通体の話しことばではほとんど用いられない。〉P177
現代の話し言葉としては使われているのではないか。その時は、言い差しの印象だ。
〈「と思う」の基本的な機能は、聞き手に向けて態度表明を行うということにあるので、独話や心内発話などの聞き手不在発話では用いることができない。〉P184
一番よく使うんじゃないかという「と思う」。断言を曖昧っぽくするつもりで自分は使っているので、態度表明と言われると、そんなに強いものなのかと驚く。
〈説明のモダリティを表す「のだ」には、話し手が認識していたことを聞き手に提示して認識させようとするときに用いられる提示の「のだ」と、話し手自身が認識していなかったことを把握したときに用いられる把握の「のだ」がある。〉P197
「のだ」は「んだ」と表記されると随分印象が変わる。
〈「のだ」を用いた質問文では、聞き手から情報を得たいという話し手の態度が表される。そのため、授業で、教師が生徒に、教師自身は答を知っていることを質問するときなどは、「のだ」は用いられにくい。
・〔授業で〕
教師「明治時代は何年に{始まりました/?始まったんです}か」〉
P198
上記の説明にはなるほどと思う。一方、この例文は全く許容できる。しかし、おそらく教師が生徒に対して「皆さん、分かってるはずですよ。さあ先生に教えて下さいよ」的言い方をしているのだと考えるのが妥当だろう。
〈「なぜ」「どうして」を用いた質問文では、「のだ」は原則として必須である。
・どうして、これを選んだんですか?
・*どうして、これを選びましたか?〉P200
下の例文は、言われなければ許容してしまう。しかし、言われてみれば、何となくアンドロイド語っぽいという気がしてくる。
〈話し手の眼前で成立した事態をそのまま述べる場合にも、把握の「のだ」は用いられない。
・〔ぎりぎりでバスに乗り遅れて〕
ああ、{行っちゃった/?行っちゃったんだ}。〉
これも許容できるなあ。自分に言い聞かせてる感じが伴うのかな。
〈前置きの「のだが」の前には、聞き手が知らないと話し手がみなしている内容が示される。聞き手が知っていると話し手がみなしている内容を前置きにする場合には、「のだが」ではなく「が」が用いられる。
・昨日、偶然{?聞きましたが/聞いたんですが}、佐藤さんも辞めるそうですよ。
・かたい話ばかりが{続きましたが/*続いたんですが}、みなさん、お疲れではありませんか?〉P206
これもそう言われてみれば、という程度。どちらも許容できる。
〈「もの」というのは、時間が経過しても基本的に変化しない物体であり、「こと」というのは、時間の流れの中で生起する出来事である。「もの」は確固たる、動かしがたい「もの」であるため、プラス評価の表現に比較的用いられやすく、「こと」は、平常の状態に変化をもたらすため、マイナス評価の表現に比較的用いられやすいという傾向がある。〉P219
これは、言われてみればその通りだ。例文も納得がいった。
〈いずれの品詞に接続した場合でも、「ことだった」という形はとらない。〉P227
これを言う人は結構いる。たしかに妙な感じを最初は受けたが、今では慣れてきた、けどやっぱり間違った用法だったんだね。
〈一方で、文には、独話や心内発話といった聞き手の存在しない発話環境を中心に現れるタイプもある。話し手の情意や意志の表出のような、聞き手を意識しない機能がこのようなタイプにあたる。聞き手に伝えることを意図しない文が存在するというのも、文がもつ伝達的な機能の1つの側面を表しているのである。〉P229
文法の話しだが、哲学めいている。
〈伝達態度のモダリティは、話し手が発話状況をどのように認識し、聞き手にどのように示そうとしているのかを終助詞によって表すものである。
終助詞には、伝達に関わる「よ」「ぞ」「ぜ」「さ」「わ」、確認・詠嘆に関わる「ね」「な」「なあ」「よね」がある。さらに、「とも」「もの」(「もん」)「の」「っけ」「ってば」のような終助詞相当形式もある。〉P239
これが一番聞きたかったことかも。
〈先行認識の成立しない発見の状況では、「な」は容認性が下がる。
・?あ、財布が落ちてるな。
・?おや、こんなところに何かあるな。
発見の状況がふさわしい「ぞ」とは機能に違いがある。〉P262
確かに「ぞ」の方がいいけど。「な」でもいいように思う。自分に言い聞かせてるような感じを受けるが。
これは許容できるかできないかということを考えていると混乱してくる。別の日に見たら全然違う感覚を持つかも知れない。
くろしお出版 2003.11. 2800円+税10%