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橋本陽介『「文」とは何か』(光文社新書)

 副題は「愉しい日本語文法のはなし」。文法はなぜつまらないのか、文法を楽しく、という主旨の本。目からウロコの部分も多々あるけれど、しかし、文法は愉しい、までは到らなかった。逆に文法は人間の本質まで繋がっているんじゃないかと・・・益々難しいなという思いを持った。難しさが面白さでもあるのだが。

 以下に、目からウロコの部分を個人的忘備録として書いておく。

はじめに より
〈今、学校で教わっている文法の体系は、戦後すぐから大きくは変わっていない。戦前や戦後すぐは、まだ古文(というかそのころは「文語」と呼ばれていた)の影響力が強かった時代である。話している言葉に近い「口語」ではない「文語」を理解するためには、整理された文法を習ったほうがはやい。学校の文法とは、古文(文語)を理解するために超実用的に作られているものであって、それは今でも変わっていない。〉P.5
 まず、この序論の段階で、古文=文語という定義にひっかかった。まず文語とは何か、が問い直されなければならない。

第一章 「文」とは何かという根源的な問い
「主語ー述語」に着目すると文は①名詞述語文(AはBだ)②形容詞/形容動詞述語文(Aはどんなだ)③動詞述語文(Aは〈何かを)する)に分けられるという。英語文法を中心に考えると、③しかないわけだが、それで逆向きに日本語を理解しようとするからおかしくなるのかもしれない。P.21
〈③は動詞が述語になっているもので、主語の動作などを表す。動詞は、辞書に載っている形がウ段で終わっているものだった。〉P.22
 そう言われてみればそうだけど。動詞はウ段で終わってる。
〈主語になれるのは、主に名詞である。動詞や形容詞はそのままでは主語になれないので、「赤いのは太陽だ」「飛ぶのは鳥だ」のように、「の」をつける必要がある。〉P.24
 確かに「の」をつければ、名詞になり、主語になる。
〈ちなみに、体言、用言の「体」と「用」は朱子学からきた用語である(仏教にもある)。〉P.25
 ロングラン使用されている。
〈学校文法的には、直前に移動できるところを修飾していると考えている。〉P.28
 英語よりよほどシンプル。
〈連用修飾語になるときの形を連用形と呼ぶ。〉P.29
 機械的に呼んでたわ。
〈「格」とは基本的には、述語との関係で名詞が果たす役割のことである。そして、その役割を与える助詞を格助詞という。〉P.34
 これも語義を知らないままに使っていた文法用語。

第二章 助詞と助動詞は秘密の塊
〈「何かを述べたてる」には、主観的に何かを「一つのまとまり」としてまとめ上げること、そしてそれを伝達することの二つが含まれることになる。
 この二つは、日本語の文法形式の中にもきちんと表されている。文法形式としての話者の主観が表現されるのは、日本語では述語の末尾である。学校文法では助動詞と呼ばれているものの中に、それは表現される。〉P.50
 話者の主観が表されるのが助動詞ということなのか。
〈(助動詞は)動詞というか、形容詞、形容動詞など、述語につく。(…)動詞(の仲間の形容詞・形容動詞)以外にもつく助動詞がある。古典文法なら断定の「なり」、現代語なら「だ」「です」である。〉P.52
 「なり」はともかく「だ」「です」も助動詞か。
〈話者の希望や推測を表すものを、一般的にモダリティと呼んでいる。もし言語の本質を、話者が主観的に何か表現すべきことをまとめ上げ、述べることにあるとするなら、話者の主観を表すモダリティこそが、「文」を成立させるものだということになる。〉P.53
 今、一番気になる文法用語、「モダリティ」。
〈この話者によるまとめ上げ作用こそが「文」を成立させるものだ、とも考えられる。〉P.53
 何の助動詞も使わない状態であってもだ。
〈話者の主観を表す助動詞「う、まい、たい、そうだ、ようだ、らしい」よりもさらに後ろにくっつくものがある。最後につくので、終助詞と呼ぶ。〉P.54
 これもモダリティなのだ。
〈文には客観的なことを表現する部分と、主観的判断をする部分、それに聞き手に対する伝達を担う部分があることがわかる。〉P.55
 客観的叙述を命題と呼んでいる。それに+助動詞+終助詞。
〈「た」は単に過去のことを表すだけではない。「た」を使うと、現実にそれが生じたことを主張できる。〉P.56
 「タ形」という呼称もある。
〈日本語では客観的な助動詞のほうが、主観的な助動詞よりも先に来る。〉P.58
 助動詞内での先・後も文内の他の要素との順序に準ずるのだろう。
〈おそらく、「れる、られる」の中心的な意味は、「話し手のコントロールが及ばないところで何かが発生する」というものではないかと考えられる。〉P.59
〈「たい」は主観的願望を表すのに対し、「たがる」は第三者的に見て、何かすることを望んでいる意を表す。〉P.61 
 助動詞の本当の意味するところは学校文法だけではなかなか分からない。
〈補助動詞は、学校では軽く触れられるだけだが、文法的にはとても大事だ。述語の意味を色々と補完してくれる。〉P.63
 ~みる、~いる、~ある、~おく、~しまう、等。元々は動詞だったものが変化したもので、英語の完了形のhaveなどもそうだとか。全く分かってないまま何十年と英語を教えてきてしまった。

第三章 「文」と西洋ロゴス
〈第二章では、文なるものを「命題(≒客観的な叙述部分)+モダリティ(主観的)」とする考え方を見たが、これだって西洋的な知の枠組みを出発点にしている。〉P.66
 明治以来の思考体系は全てそうではないのか。
〈では、「文」の意味はどうなるだろうか。前章では文を「命題+モダリティ」とする考えを紹介した。命題とは何か。伝統的には「真理値を持つもの」とされる。真理値とは、その「文」において真か偽か決定できるもののことだ。つまり、真か偽か決定できるとは、「文」が言語外の現実と対応しているということだ。やはり「文」を世界と対応させられるかどうか、が重視されていることがわかるだろう。〉P.74
 この辺りから難しくなってくる。
〈「赤い」という形容詞も考えてみよう。私たちは世界の中では、なんらかの物体が「赤い」ことを認識している。何にも付属していない「赤」そのものは、どこにもない。絶対に何かが赤い。〉P.77
 これは理解できる。

第四章「文」とは、必要なことが必要なだけ表わされたものである
〈実際の話し言葉を観察すると、断片的で「省略」が多いし、語順も規範的なものとは異なり、スクランブルされやすい。すると、規範的な文(書き言葉として通用するもの)が先にあって、話し言葉はそこから逸脱したもの、省略されたもの、劣ったものとされてしまう。ほとんどの文法論は、こうした思考法に立っている。つまり標準的な書き言葉を先に考えている。〉P.104
 文の生成から考えると逆ではないだろうか。
〈言語学には、話された言葉こそが本来的なものであり、書き言葉は二次的なものであるとする考え方も存在している。同時に、理性的に整えられた言葉こそが本来的であるかのようなバイアスも存在している。この両者の関係は難しい。〉P.105
 圧倒的に前者を取りたい。

第五章 自ら動くのか、他に働きかけるのか
〈英語の教学上の文法では、他動詞とは直接目的語を取れるかどうか、つまり前置詞なしで目的語を取れるかどうかだとされる。前置詞が付くと自動詞扱いになってしまう。〉p.110
 日本語文法の本で英語を教えられる。ここに書かれたように英語を教えているが、日本語話者には体感しにくい部分。
〈他動性とは、他のものに対する「働きかけの強さ」である。行為の結果、それが及ぶ対象が変化してしまうものがもっとも他動性が高い。まさしく、「他のものが動いている」からだ。〉P.111
〈英語で直接目的語を取れないということは、「待つ」は勝手にやっているものであって、彼だとか電車などは動作の直接的な対象とは考えていないのだ。したがって、前置詞のforは動作の対象ではなく、意識が向かう先を示してると解釈される。〉P.111
 なるほどね。自動詞は前置詞をつければ、他動詞と同じ働きをすると思いがちだが。
〈なぜわざわざ「これを」なんて入っているのだろうか。これは、日本国憲法が漢文の訓読体であることに関係している。戦争が終わったころの硬い言葉は、漢文訓読体を用いるのが普通だったのだ。漢文とは古典中国語であるが、古典中国語も他動詞と自動詞の区別が形の上ではない。他動詞であることを明示するためには目的語を何かつけなければならない。このため「不認之(これを認めず)」のように、意味的にはなくてもいいはずの目的語「之」が必要になる。〉P.120
 これは現行の日本国憲法の話。憲法の文体が漢文訓読体だからやたらに「これを」が挿入される、と。目からウロコだった部分。

第六章 AIが人間に近づくのではなく、むしろ人間がAI?
〈(「名詞+名詞」の場合に「の」がつくので、そのルールを(形容詞+名詞にも)適用したのだろう。何かルールを学んで、それを過剰に適用してしまうことを過剰一般化と呼ぶ)。〉P.141
 子供が言語を習得する時や、大人でも母語以外の言語を獲得しようとする時にやってしまいがち。

 第七章 認知主体としての人間に焦点を当てた考え方
〈ヨーロッパの哲学には、経験主義と合理主義という対立がある。経験主義とは、人間の知識はすべて生まれてからの経験に由来すると考える立場のことで、合理主義とは、人は経験する前から生まれながらにして観念を持っているという考える立場のことである。〉P.146 
〈生成文法の考え方と対比的な理論に、認知言語学というのがある。認知言語学では、人間の主体性や経験を重視する。文法を自立した計算システムと考えるのではなく、私たち人間の身体と、環境との相互作用や、ものごとのとらえ方から言語を規定しようとする理論で、経験主義寄りのアプローチである。〉P.146
 80年代の日本の大学の英文学科(多分英語科も)は生成文法一択だったのではないか。認知言語学の理念の方がすんなり理解できるのだが。あの生成文法は今でも有効とされているのかな。
〈これらの用例は、どれも比喩的に拡張されたものだ。人間の認知能力には、基準となる何かと比べて、別の何かが同じであるとか、似ているとか、判断する能力が備わっていて、どうもそれが単語の意味を拡張させていくものらしい。〉P.148
 比喩は人間の言語の運用能力にあらかじめ内包されているということか。
〈生成文法の考え方では「その家は彼によって建てられた」のような受身の文は、「彼はその家を建てた」のような能動文から派生するものだとされた。(…)その根底には、能動文と受身文は論理的に言って意味が同じであるという言語観がある。
 認知言語学では、一方が別の形から派生したとは考えない。客観的には同じことをあらわしていたとしても、言語表現が違うとしたら、それは話し手(書き手)の捉え方が異なるからである。〉P.154
 最近は認知言語学寄りの教え方になっているのではないか。
〈中村芳久は、話し手の主観的な見え方から捉えるものをIモード(interactional mode of cognition)、話し手の外側から客観的に事態を捉えるモードをDモード(displaced mode of cognition)と呼び、日本語はIモードが多く使われ、英語などではDモードが標準とされているとしている。日本語のほうが、主観的な捉え方から言語表現をしやすいのである。〉P.155
 この用語、この考え方は覚えておきたい。

第八章 言語は思考を決定しないが表現と解釈を縛る
〈言語は、意識的な思考を導くものである。学問は意識的に思考するものであるから、言語を通じて行われる。
 このため、使用する言語の形式から、抽象的思考が出発していることは少なくない。〉P.174
 抽象的思考に適している言語とそうでない言語があるだろう。
〈文末の形式
 どのような表現を取るかによって、聞き手や読み手の読解の仕方、感じ方は異なってくる。文学のような言語の使用では、読み手がどのように感じるか、解釈するかは特に重要である。〉P.180
 として文末の形式を解析している。
〈日本語では、文末において「た」を使用するタ形と、そうではない通常の形(ル形)を使い分けなければならない。タ形は過去や完了を表し、ル形は過去ではないことを表す形(非過去形)である。〉P.182
 学校文法ではない文末の解釈はもっと一般的になるべきだろう。
〈引用部分では、「一度その行為が起こった」ことを表す文脈でも、タ形ではなく、ル形が使用されている。タ形は現実の時間軸にその出来事を位置づけるので、現実的になるが、ル形が使用されることによって全体として非現実的な印象になっている。〉P.184
〈ライトノベルのように、読者の体験性を重視するジャンルではル形の使用が中心になる。あるいは、タ形が多く使われると客観的な印象になることが多い。〉P.184
〈現在のタ形とル形を混用する形は、明治時代に欧米の小説を翻訳する過程を経て成立したものである。〉P.184
〈野村剛史(…)によると、明治初期の小説、例えば尾崎紅葉の『金色夜叉』の文末は、古文と同じく「き、けり、つ、ぬ、たり」などが使われているものの、その使い分けは本来の古文の文法とは異なっているという。「き、けり、つ、ぬ、たり」がちりばめて使われているのは、単に同じ形を回避するためだけであると指摘されている。〉P.185
 何やら小説の世界にも短歌の世界と同じことが起こっていたような。

第九章 複雑な「文」の作り方
〈日本語では和歌などを中心に、長い修飾語+名詞の形が広く使われてきた。この形式では、長い修飾語で表されるような属性を持った最後に来る名詞にスポットが当たる。属性とともに、その名詞で表される物体そのものを差し出すのだ。〉P.197
 ついに話が和歌に及んだ。
〈文を切らずに続ける場合、最も単純な方法が、連用形でつなげる方式である。連用形は、前と後ろが単純に並列される形式である。〉P.201
 どう文を繋げる(続ける)か。
〈「て、で」(テ形)でつなぐ方式は、多様な意味を表せる。というか、多様な意味を表していると読むのは、あくまで論理的に分析をした場合であって、「て」は単純に二つの出来事を接続し、その両者に複合的な関係がありますよ、とする形式なのだ。「て」自体に何か意味があるわけではない。〉P.204
 連用形で繋ぐか、「て」で繋ぐか。
〈このように、主語が同じで、その時間的に連続した動作を表す場合、連用形やテ形で並列させ、「一つの文」にしやすいことがわかる。(…)この二つは意味的に置き換え可能なことが多い。〉P.208
 今後注目して読みたい。
〈日本語はつくづく「自然に発生する」ことを表すのだ好きな言語だと思う。〉P.214
 これも今後意識して読みたい。

第十章 「文」の文法からこぼれ落ちた問題―語用論、テクスト
〈「文」なるものは現実と一対一で合致するものではない。読み手のほうは、表現された「文」を手掛かりにして様々に読み解くのである。その際、私たちは文脈に照らし合わせて解読する。文は文脈に埋め込まれて意味を持つ。〉P.234
 一文で読む時と文脈に埋め込んで読む時と。小説なら一文で読むということはほぼ無いのであろうが。
〈発話者が実際に「文」を使用する場面や状況、意図のほか、それを推測する方法などを扱う分野を語用論という。また、「文」は集って文章(テクスト)となるが、その「文」のつながりを考える分野をテクスト言語学という。〉P.234
  こうした分野の本も読んでみたい。
〈文のこうした使用の側面は、語用論では「ポライトネス」の理論として知られている。日本語のような言語は、特にポライトネスが文法に組み込まれているし、表現のバリエーションも比較的多い。〉P.249
 しかし他言語話者にはこのポライトネスは混乱の元だ。自分がどうすべきなのか、相手の言葉(日本語)から判断がつかないのだ。
〈話し言葉では、終止形で文を終わらせることはむしろ少ない。「~し」「~だが」「~けれど」「~だから」「~のに」や「~って」のような形式を頻繁に使う。〉P.256
 書き言葉の終止形で終わる話し言葉などないだろう。
〈話し言葉では「従属節ー主節」のように、上下関係を作って「文」を続けているわけではないのではないか。思いつく順番で、比較的単純な構造を連鎖させているだけなのではないか。〉P.257
 このように話している時に話し手の脳の中でどんな文章構成が浮かんでいるのか。これが何学の範疇に入るのか分からないがもっと知りたいと思った。

光文社新書 2020.8. 本体840円+税

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