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花山多佳子『鳥影』

 第11歌集。読み方は『とりかげ』。2010年から2015年までの468首を収める。第11歌集という継続の凄さに驚く。しかも、2019年発行の本歌集が、2015年までの歌というのだから、どれほどまだたくさんの歌が歌集になろうとしているのだろう。精力的な活動に圧倒される。生活は穏やかだが、それに対する視点と把握は花山独自のものだ。

春雪の気化する街路けぶりつつ生者は薄く亡き者は濃き

 春雪が直接気化しているのだろうか。春の暖かい空気中の水分が、雪面に触れて冷やされ、霧状になっているのか。水蒸気でけぶるような街路を作中主体は歩いているのだろう。その時に主体に思い起こされる様々な人々。生者の姿は淡く、既に亡き人の姿は濃い。春の霧の濃淡のように人々の姿が主体の前に立ち現れてくる。上句と下句の間に、「思い起こされる」といった語の省略があると読んだ。

いつせいに生れしわれらに消えてゆく後先のあり戦(いくさ)にあらねば

 団塊の世代である作者。戦後のベビーブームで一斉に生まれてきた。しかし、その後戦争が無かったため、人が一斉に死ぬ状況にはない。人々はそれぞれの事情で早く死んだり遅く死んだりする。「終りなき時に入らむに束の間の後前(あとさき)ありや有りてかなしむ 土屋文明」を思い浮かべた。花山の歌の方が冷静だけれど。

アスリートは或る時点より確実に把握するらし体を頭で

 これは少し不思議な歌。主体も何か新聞か雑誌でこういう記事を読んだのかも知れない。運動選手は、練習を積んでいく内のある時点から、自分の身体の状態を頭で把握するようになる、という情報。主体はそれを自分の身体で実感できないまでも、頭では理解できたということではないか。そういうものなのね、と。不思議、でも納得できる、という感情が読者にも伝わって来る。それができた時からおそらく選手は強くなるのではないか、と筆者は感じた。

蒸し暑きこの夕まぐれ新米に手をさし入れてしばしを居りぬ

 蒸し暑く、がまんできない日の夕方。研ぐために米を取ろうとして、米の中に手を入れた主体は、思わぬひんやり感に少し安らぐ。そしてそのまましばらく時を過ごしていた、というのだ。傍から見たら奇妙な光景だが、日本の夏の異常な暑さを思い浮かべた時、主体の感じた快さが体感として伝わってくる。新米なのだから、もう夏も終わり、秋が始まろうとする頃だろう。

両岸のさくらが遠く交はればさくらの上を電車が通る

 川の両岸に桜並木が植えられているのだろう。春になり桜が満開になる。川上か川下か、遠くを眺めた時、花と花とが交わって見える。そこに鉄橋があるのだろう、桜の上を電車が通って行くように見える。きらきらとした春の水面も見えるようだ。とても絵画的な歌。

若き日はなぜかしら強く思ひゐき歴史なきゆゑ団地が好きと

 花山の年齢を考えると、彼女の若い頃に多くの団地ができ、多くの人がそこに住み始めた。団地は新しく、スタイリッシュな存在だった。古い街並みの一軒家にあったしがらみのようなものが無い団地は、戦後日本のじめじめした歴史から解放された空間のように思えたのかもしれない。しかし今、主体はその好きだったという感情を、なぜかしら、と思い返している。今はそう思っていないということだろう。長い年月が経ち、団地にも澱のように歴史のようなものがこびりついてきた、ということもあるだろう。

蒸す昼に「ねむいね」といふメール来る自分から来たメールのやうに

 これは花山の特質が強く出た歌だと思う。意識がぼんやりしてしまうような蒸し暑い昼、「ねむいね」というメールが来る。自分が、ねむいと思っていた瞬間に来たメールを見て、まるで自分からメールが来たようだ、と感じたのだ。自分の内と外が混ざり合うような感覚。それが主体にとって全く自然なことと感じられ、素直に表現されているのため、読者もすんなりと受け入れてしまう。これが花山の歌の妙味ではないだろうか。

カクレミノの葉むらのなかに鳥が鳴き「ゐるね」と言つて幼子が聴く

 カクレミノの葉が茂っている中で鳥が鳴いている。それを聞いて幼い子が「いるね」と言って鳴き声を聴いている。それだけのことなのに、この歌にはとても惹かれる。おそらく筆者は、作者が「いるね」という言葉を歌にしたことに感動しているのだ。幼い子は誰でも、この「いるね」という言葉を使うのだろうか。筆者の姪や子が幼かった時も一時盛んにこの言葉を使った。鳥さんいるね。象さんいるね。それが実物であっても絵本の中の絵であっても。自分と同じ空間にその物が存在する、それを確認するだけで子供は幸福を感じるのだ。いるね、と言ってその存在を喜ぶ。大人が、いるねと言うのは、この言葉を発する子供に返事をする時だけではないか。何かが存在するだけで満足という気持ちを、大人になる過程で失ってしまうのだ。

うちつけに秋は来たりて過ぎし世のなごりのごとく咲くさるすべり

 急に秋が来て、涼しくなってしまった。さるすべりの花が、急に時季はずれのように見える。さるすべりは真夏の花。よく敗戦のイメージと結び付けられる。「過ぎし世」には、単にその年の夏だけでなく、遠く過ぎ去った時代が表現されているのだろう。さるすべりをその時代の名残と感じたのだ。何度も何度も夏が過ぎ、秋が来た、そんな自分の人生への感慨もあるのだろう。

濁りふかき池に小石のおとされて浮上してくる黒き鯉の背

 なぜ鯉は浮上してきたのだろう。小石が落とされたことで、人が池の端にいることを知ったのだろうか。餌をもらおうと思って浮上して来るのか。そうだとしたら、非常に人の存在に慣れた鯉だということになる。しかし、この歌からは不気味な雰囲気が感じられる。池に侵入してきたものに対して、鯉の姿を借りた何者かが、怒りを表しているような印象すらある。連作中の一首で、他の歌には不気味な雰囲気は全く無い。この歌は一首で読みたいと思った。

角川書店 2019年7月 2600円(税別)


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