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【災害記録帳】善光寺地震〜「土葬にされ、火葬にされ、水葬にされ三度弔われた。」と例えられる被害の多様性〜

江戸時代の1847年5月8日(弘化4年3月24日)、長野盆地西縁断層帯を震源とするM7.4の善光寺地震が発生した。
善光寺地震を考えるには、被害の多様性に着目する必要がある。犠牲者は「土葬にされ、火葬にされ、水葬にされ三度弔われた。」と例えられるように、さまざまな災難が人々を襲った。

善光寺の門前町だった長野村(現在の長野市)では、家屋の倒壊や火災により大きな被害を記録しており、震度は6~7であったと推定されている。
不運なことに地震発生はちょうど善光寺が常念仏6万5,000日の御回向(居開帳)の最中であり、大勢の参拝客が集まっているタイミングでもあった。さらに地震発生が夜間であったことも被害を大きくした。死者は8000人を超えたとみられる。
善光寺は山門・経蔵こそ小破で済んだものの本堂は大破、寺内の院坊も門前町も全焼する凄惨な状況だった。

史料や土砂崩れの痕跡などから推定された善光寺地震の震源域周辺の震度分布図(内閣府資料)

善光寺平(長野盆地)の西側にある犀川丘陵では多くの土砂災害が発生した。この山間地が典型的な地すべり地帯であったことも災いして、4万カ所以上が崩れたとされ、多くの集落が被害を受けている。中でも虫倉山塊の南斜面は顕著で、現在でも倉並地すべりが知られている。また現在の茶臼山自然植物園・恐竜園は善光寺地震の地すべり跡を利用している。

そしてさらに被害を大きくしたのが河道閉塞の発生だった。

もっとも大規模だったのが、現長野市信更地区にある岩倉山の地すべりだった。山頂から3方向への崩壊が発生し、山腹の集落を襲うとともに、崩落した土砂が際に川に流れ込んだことで河道閉塞が発生、水量豊富な融雪期であったこともあり、犀川上流には32kmにもおよぶせき止め湖が形成された。
翌月にはこの閉塞が決壊し、下流の善光寺平は大洪水に見舞われる。犀川が善光寺平へ出るあたりでは、水位が20mに達したと当時の文献に記されている。

犀川丘陵に多く見られる地すべり地形(地理院地図+地すべり地形分布図)

大きな被害を受けた松代藩は藩主自ら現地調査に赴くなど、当時においては特異ともいえる優良な災害対応を見せた。その結果として多くの絵図等の資料が残されており、当時の教訓を現在に引き継ぐことができていることは特筆すべきだろう。

信濃国六群大地震満水之図(国文学研究資料館所蔵)

さまざまな被害の事例を後世に残した善光寺地震だが、最大の特長は「地震が誘発する土砂災害」にあるのではないだろうか。
こうした事例はその後も各地で発生しており、旧山古志村(現長岡市)で多くの地すべりが発生した2004年の新潟県中越地震や、2008年の岩手・宮城内陸地震、そして2018年の北海道胆振東部地震などが挙げられる。中でも北海道胆振東部地震での土砂の崩壊面積は明治以降の国内最大を記録しており、震源に近い厚真町では土砂災害に巻きこまれて36人が亡くなるなど甚大な被害となっている。

善光寺地震と併せて記憶にとどめておきたい。

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