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[小説] カンブリア・ヒルズ|002|箱庭の楽園 (1)

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 毎週火曜日の四時限目に開催されている大学のゼミの教室にやってきたマヤコは、何かいつもと違うな…と思って部屋を見渡した。
 まだ誰も来ていない教室には強烈な西日が差し込み、どこか異世界のような雰囲気が漂っている。

 マヤコは窓際の棚の上に、見慣れない水槽が置いてあるのを発見した。
 近寄ってみると、それは横幅60cmほどのガラスの水槽で、上部にもガラスのフタがしてあった。
 中には、箱庭のような、ジオラマのような、可愛らしい庭園のミニチュアが作られていた。

 教授が置いたのだろうか? 人文学のゼミで箱庭を使うことは、ありそうななさそうな…。
 どういうことだろう、とマヤコが小さな庭園を覗いていると、一年先輩の槇原のぶよが教室に入って来た。

 「あら?マヤちゃん、何してるの?」
 「あ、先輩…。これ、何ですか?」

 マヤコの指さす先を見て、のぶよは首をかしげながら近くへやって来た。そしてしばらくの間、水槽を覗き込んでいた。

 「何だろう? 教授が置いたのかな?」

 のぶよも水槽については何も知らないようだった。しばらく二人は水槽を覗き込んでいたが、何か生き物がいるわけでもなく、特に何の変化もなかった。いつまでも覗いているわけにもいかないので、二人はゼミの準備を始めた。

 そこへ、このゼミの教授である斉藤が教室へ入って来た。すかさずマヤコとのぶよが水槽について尋ねたが、斉藤もそれを誰が置いたのか知らない様子だった。

 教授が置いたのでないのであれば、前の人たちの忘れ物だろうか? マヤコは水槽が気になって仕方なかった。
 だが、彼女以外の面々は、それほどには水槽に興味がない様子で、教授が後で確認するということで落ち着いてしまった。
 数分後にはゼミのメンバーも揃い授業が始まってしまったので、マヤコもしぶしぶそちらに集中することとなった。

 その日、下宿しているアパートに帰っても、マヤコは水槽のジオラマのことが忘れらずに、もぞもぞと眠れない夜をすごした。朝方にやっとウトウトし始めたころ、玄関のドアのあたりでガサゴソと音がした。
 ここ数日、ゴミを漁ったり、玄関前の傘立てにいたずらする野良猫がいたので、奴が来たのかと思い、マヤコはベッドから抜け出して玄関を開けた。

 猫がいるものだと思い込んで、アパートの廊下に視線を走らせると、思いがけないものが目に入りギョッとした。
 マヤコの部屋のすぐ横にあの箱庭の水槽が置いてあったのだ。

 誰がこんなこと?

 手元の傘立てからビニール傘を1本取り出し握りしめると、マヤコはアパートから道路に出て、辺りをうかがった。
 白々と夜が明け始めた街角には人っ子ひとり、猫すらいなかった。
 しばらくキョロキョロしてから、マヤコは自分の部屋の前に戻り、これをどうしたものか…と水槽を見下ろした。
 水槽の中には、大学の教室で見たのと同じジオラマが作られていた。こんなものがそっくり2つあるとは思えない。どうやら、これは、あの教室にあったものと同一の水槽らしい。

 マヤコは意を決して水槽を自室に運び入れた。少々不気味だったが、彼女はどうしてもこのジオラマに魅了されてしまっていたのだ。

 あの教室にこれを置いたのも、私に見せるためだったのかもしれない…。

 そう思いながら、マヤコはまじまじとジオラマを観察した。

 ジオラマは、箱庭のようなものだった。
 手前に波打ち際が透明な素材で表現されている。その奥には砂浜と芝生。右側奥の角に小さな可愛らしい小屋が立っている。
 その手前には、シェパードのような犬、ロッキングチェアーに男の子の人形が座っている。
 (教室で見たときにこんな人形あったかしら??)
 小屋と反対側の角には、雑木林と畑のような緑のエリアが作られていた。雑木林の木には赤い実が成っていた。

 ぼーっとジオラマを見ていたら、急に携帯の目覚ましが鳴って、心臓が口から飛び出るほどびっくりした。
 慌ててアラームを止め、なんとなく携帯のホーム画面を見ると、カレンダーの日付が3日先にずれていることに気が付いた。
 携帯の時間や日付は自動的に合うようになっているはずだ。壊れてしまったのだろうか?

 時間もずれてたらまずいと思って、テレビをつけると、朝の番組が放送中で、時間はあっているようだった。
 ほっとして日にちを直そうとしたところで、テレビの中の司会者が、「週のしめくくり、金曜日…」と言っているのが聞こえた。

 え? 今日は水曜じゃないの?

 テレビの内容に集中したが話題が進んでしまって、それ以上確かめることはできなかった。他のチャンネルに替えてみるも、日にちを確認できる番組はない。そこでハッと思いつき、リモコンの「番組表」ボタンを押した。金曜日の番組表が表示された。

 今日は…金曜日なの??
 昨日はゼミがあったから火曜なのは確実だ。なぜ今日は金曜日なのか?

 マヤコは激しく動揺していた。3日間の記憶が無くなっているのか、時間を飛び越えてしまったのか、それともマヤコが狂ってしまったのか…?
 部屋の中や、携帯の履歴など見ても、この3日間に何があったのか推測できるようなヒントは見つからなかった。

 今まで、3日くらいは学校をさぼることもあったし、マヤコには頻繁に連絡を取り合うような友達もいない。むろん、恋人もいない。
 人と親密になりすぎることを嫌う自分の性格を今日ほど呪ったことはなかった。

 とりあえず、学校へ行ってみるしかない。

 キャンパスを歩いていると、わりと仲良くしているサチエが近寄って来て「おはよう、なんか久しぶりだね。」と言った。
 学校に来れば、一日に一回はサチエに合うはずだ。

 「そうだね。何日ぶりかな~?」さりげなく聞いてみる。
 「先週の火曜にはお昼に会ったよね? それ以来かな??」

 ん? 先週?
 咄嗟に携帯を取り出して見ると、日付は翌週の月曜になっていた。
 また時間が飛んだのか? いつ飛んだ? 全く切れ目がわからない。

 マヤコはもはや自分が誰なのか、今がいつなのか分からなくなってしまった。パニックの渦がじわじわと押し寄せて呑まれそうになる。

 どういうこと?  どういうこと? どういうこと?

 マヤコの頭の中で思考が猛スピードでぐるぐると回転し、外からの情報を遮断してしまう。

 サチエの「どうしたの? 大丈夫?」という声が遠くから聞こえる。

 もう無理だ。授業なんか受けている場合ではない…!

 マヤコは心配するサチエの手を振りほどいて駆け出すと、一目散に自宅へと帰って来た。

 家に着くと、マヤコはトイレに直行した。子供のころから、頭の中を整理したい時にはトイレに籠ってきた。
 ズボンは下ろさずにフタをしたままの便器に腰を落とす。

 何なの? 何これ? 解離ってやつ?
 何の予兆もなく、なるものなの?

 先ほどのサチエの様子からすると、記憶のない間に学校には行っていないみたいだ。自分の記憶は途切れなく一続きだ。知らない間に時間を飛び越えたとしか思えない。

 しかし、そんなことが現実にあり得るだろうか…。

 あれこれ考えを巡らせながら、ふと水槽のジオラマを見ると、今朝みたときと何かが違っているように見えてきた。
 そもそも、おかしなことが起こり始めたのは、この水槽がマヤコの前に出現してからだ。何か関係があるのかもしれない。

 マヤコはじっくりと水槽の中のジオラマを観察した。
 ジオラマの中には犬と男の子の人形が置かれている。赤い実のなっている木の下に立っている。そう、この人形、確か教室で見たときはなかったはずだ。
 ちょっと待って。今朝はこの人形、小屋の前のロッキングチェアーに座っていなかったか?

 記憶があいまいだったが、木の下になんかいなかったと思う。

 そう確認したところで、急に人形が動き始めた。まるで生きているように滑らかに。
 人形はぴょんとジャンプすると、木から赤い実を取って、口元へ運んだ。しばらくそうして人形は実を食べているようだったが、やがて苦しそうなそぶりを見せると、急にバタリと倒れてしまった。

 傍にいた犬の人形が、倒れた男の子人形のまわりをぐるぐる回って、どうやら吠えている様子だ。
 すると、犬はくるりとマヤコの方を向き、ワンワンワンと吠えてきた。いや、もちろん犬の声が聞こえたわけではない。吠えているんだろうな、という動きをしたのだ。

 ゾッとして、身を引こうとしたが、その瞬間に、急に場面が変わり、マヤコは病院のベッドの上にいた。
 身体を起こすと、点滴をされ、心電図のような機械がピッ、ピッ、ピッとマヤコの脈を数えている。

 手元にナースコールがあったので押すと、すぐに看護師がやって来て、あとに続いてサチエも入って来た。
 サチエは泣いていた。マヤコはどれほど彼女を心配させてしまったのかその時初めて知ったのだった。

 あの後、サチエはすぐにマヤコの後を追ったが見失い、家まで訪ねたのだが、マヤコは留守だったと言う。
 カギが開いていたので入ると、テーブルの真ん中に粘土で作った妙な形のものが乗っていたそうだ。

 サチエは、その粘土細工の形にどこか見覚えがあり、思い当たったのが、大学の時計台だった。キャンパスの西側には、独特な形の時計台がある。その粘土細工は、へたくそな造りだが、その時計台に似ていたというのだ。

 そこで、大学に戻り時計台へ行ってみると、ぼーっとした表情のマヤコがひとり佇んでおり、サチエの顔を見ると、そのまま気を失ってしまったそうだ。

 救急車を呼んでくれたのもサチエで、マヤコがこの病室に運び込まれてから3時間が経っていた。
 看護師が腕に刺さった点滴の針を抜いてくれた。その時に、腕に何かが書いてあるのが見えた。

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 それは、ボールペンで書かれた文字だった。腕にメモとは、いかにもマヤコがやりそうなことだ。文字もマヤコ自身のもののようだが、もちろんマヤコにはこれを書いた記憶はなかった。

 部屋に入った時に奇妙なジオラマが入った水槽がなかったか、サチエに聞いてみたが、サチエはそんな水槽を見た覚えはないとのことだった。
 出現した時と同様、忽然と消えてしまったりしてないだろうか?

 マヤコは水槽が気になってソワソワし始めた。これ以上ここに留まってはいられない気持ちになった。

 幸いにも、医師の診断でその日のうちに帰宅できることになったので、マヤコはサチエを連れ立って自宅へと帰って来た。
 そして、例の水槽をサチエにも見せようとしたのだが、マヤコの部屋には水槽はなかった。

 マヤコはまるで恋人を失ったかのようにがっかりしてしまった。

 水槽のジオラマは消えてしまったので、あれが何だったのか今となってはわからないが、人知を超えるものであることは確かだ。
 残された手掛かりは、腕に書かれた謎の文字列…。

 この文字列が何かわかれば、あの水槽について何かわかるだろうか?
 それはまだ、誰も知らない。

(つづく)
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