50代になってからできるようになったこと
私も中高年と呼ばれる50代になり、自らの老いをひしひしと痛感している。
体力や記憶力の減退が目立つようになり、ただでさえ多かったタスクの抜け漏れがさらに増えて焦ることもしばしば。抜け漏れ対策として、二重三重のタスク管理が必要不可欠になっている。
しかし、50代あたりからできるようになったこともあるので、年を重ねるのもあながち悪くはないと思い始めている。
表面だけでも「大人の余裕」を見せられるようになった
50の声を聞いた頃から、表面だけでも「大人の余裕」を見せられるようになった。特に、仕事の場面ではかなりの確率で成功している。
今の仕事に関わる業界は、人の入れ替えが非常に激しい。担当者が変わるごとに言うことがコロコロ変わるし、柔軟に対応できなければ無能呼ばわりされるのはしょっちゅうで、切られることだってよくある。
担当者には、自分の娘や息子のような若い人が多い。(ベテランでも、会社員なら役職定年が近い年齢の私より上の人はそうはいるまい)
そういう若い人にある種失礼な対応をされるのだから、年上の私は当然面白くない。メールの文面を見ながらついカチンとくることもある。
若い頃の私なら、そのような対応に強く抗議したり深く落ち込んだりして、事態を悪化させたに違いない。
しかし、年を重ねた今は年長者である自覚やプライドが生じ、「若い世代と同じ土俵に立っては負け」「ここはポーズだけでも大人の対応をしよう」など、表面だけでも大人の余裕を見せられるようになった。
それがいいことかどうかはわからないが、以前より取引先や周囲の人間関係がうまく行っているのでよしとしたい。
冷静に現実を直視できるようになった
自分がすでに中高年である現実に気づいたとき、これまでになく客観的に現実を直視できるようになった。
社会が中高年に向ける目は非常に厳しい。外出先などで少しでもモタモタしていれば、聴こえよがしに「これだからババアは……」などと陰口をたたかれることもある。
また、なまじ年齢が高いことが災いし、一度の失敗でも社会的な致命傷になる恐れがある。若い頃と違って失敗が許されないことが増えるのだ。
さらに言えば、就職市場では中高年の価値が暴落し、雇用主の目も非常にシビアだ。
特に、50歳を境にパートですら就職先が限られてくる。働く場所自体が少ない地方だと、「人手不足ってどこの話?」と思うくらい、中高年向けの求人が少ないのが実情だ。
(そんな中、毎月数万円でも得意なことでお金をもらえる私はなんと幸運なことか)
40代後半あたりからそのような社会の風当たりを直で受けるようになってから、自分はもう若くない現実を冷静に受け止めた。
また、年を重ねるほど変な見栄やプライドを捨て、より謙虚になることが必要だということも痛感している。
精神的自立の大切さに気づいた
精神的自立の大切さも、遅ればせながらようやく最近気づいた
親や同世代の人たちは後期高齢者だが、彼らの生き方を見ていて思ったことがある。
会社や子育てに依存してきた人は、いつまでも昔の地位にこだわって無関係の人にいばり散らしたり、配偶者や子どもに干渉したりする。
そのような人たちを見ていると、自分の世界を持っていない人が非常に多いことに気づく。
彼らは、会社や子どもなどの依存できるものがなくなると不安でしょうがない。ずっと依存してきたから、本当の意味で精神的な自立をしていない。
だからこそ、いつまでも所属していた会社や、家庭を持った子どもにいつまでも干渉し続けてしまうのだろう。
そのような状態は、自立しているとは言えない。かつての社会的地位がどれほど高くても、過去にどれほど稼いでいても、老いては周囲の重荷になるだけだ。
そんな高齢者になりたくなければ、年を重ねるほど心を強く持ち、年齢を言い訳にせず、誰かに依存しなくてもしっかり立って生きていける精神力を持つことが必要だと痛感している。
50代は人生を棚卸しする年代
中高年とはいえ、まだ気力も体力も残っている50代は、来る老年期に向けて人生を棚卸しする時期だ。また、それを通して気づくことも多い。
そのような気づきを自分の糧にしながら生きていけば、老年期に困ったことがあってもなんとかなるだろうだろう…たぶん。σ(^_^;)
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