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秋が苦手な理由

秋生まれなのに、昔から秋が苦手だ。人生の晩秋に差し掛かった今はなおさらに。

今は、もはや「嫌い」と言っていいほど秋が苦手になった。

秋はとても美しい季節だ。

赤く黄色く染まっていく木々の葉たち。

燃えるように紅く染まっていく夕暮れ。

収穫の時を迎えて黄金色に染まる田畑。

風に吹かれて揺れるコスモス。

鮮血のごとき深紅の彼岸花。

そのどれも、涙が出るほど美しいと思う。

でも、その美しさは「刹那の美」。

風前の灯となった命が、最後の力を振り絞って輝くかのような美しさ。その先にあるのは「命の終わり」だ。

だから私は、見るもの聞くもの感じるもの全てが命の終わりを暗示するような、美しい秋が嫌いなのだと思う。

そう思うようになったきっかけは、生まれて初めて「死」を意識したのが秋だったことだ。

重い病に倒れた祖母に最後に会ったのが秋だったのだ。

あれは小学1年生の頃。

病で入院していた祖母がいよいよ危ないという知らせが親の元に入った。

その知らせを受け取った私たち家族は、電車を乗り継いで遠方に住む祖母の元に足を運んだ。

病院に到着後、病室で横たわる祖母を遠目で見た瞬間、病が進んで衰弱している様子が手に取るようにわかった。苦悶の表情を浮かべて痛みや苦しみに耐えている様子も。

そんな中、祖母は私に気づいて手招きした。

そばに行くと、祖母は渾身の力を振り絞って私の手を握りしめた。衰弱しているとは思えないほど、強い力だった。

その直後。

祖母はまるで健康な人のようにはつらつとした表情になり、一瞬こちらがびっくりするほど明るい笑顔を見せた。

しかし、すぐに祖母の顔から表情がなくなり、私の手を放して弱々しく目を閉じたのだった。

それを見た私は、直感的にそれが私への最後の挨拶だと悟った。

次に祖母に会ったのは病院から無言の帰宅をした時だった。

人の死を、命の終わりを身近に意識したのはその時が初めてで、無性に辛く悲しい気持ちになったことをよく覚えている。

あの時、死を目前にした祖母が見せた笑顔はひどく美しかった。冬を目前に控えて刹那の輝きを見せる秋の風景のように。

生前の祖母に最後に会ったのもそんな秋の時期。

その時の風景はよく覚えていないが、おぼろげながらきれいな夕焼けを見た記憶がある。

燃えるような、悲しい夕焼けだったことも。

そんな悲しい記憶がまだ鮮明に残っているからだろうか。その日からずっと秋が苦手なままだ。否応なく死を意識させる秋がたまらなく苦手なのだ。

誰にだって死は平等に来る。

老いも若きも死ぬ時期はわからない。

誰もがいつ死んでもおかしくない。

頭ではそれがわかっていても怖い。

死が自分の元に訪れる時、祖母のようになるのが怖いのだ。

いい年して情けないことだが。

自分も祖母が亡くなった年にだいぶ近くなっている昨今は、ますます死が身近に感じられる秋が苦手になってしまった。

おそらく本当に死ぬときまで秋は苦手なままだろうな。

そんなことを考える晩秋の夜更け。

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