「民族という虚構」 ☆☆☆

こんばんは。千歳ゆうりです。

「民族という虚構」の感想。面白かったけど難しかった。んんん。


民族、例えば、日本人、とかそういう概念について。日本語を話していたら日本人なのか?日本国籍を持っていれば日本人なのか?外国籍で日本語もおぼつかないけれども日系なひとは、日本人とは言えないのか?等々を突き詰めていくと、民族という概念を定義する正確な表現がない、線引がない、すなわち、民族という概念は虚構である、とわかる。 これを、人間の認知の観点から、あるいは哲学というか社会科学の観点から民族という虚構の概念がどうして生まれるのかを探る、みたいな本でした。

面白かったけど難しかった。正直。 というか丸山眞男とかマックス・ヴェーバーも言ってる通り(プロ倫の著者)、みたいなのが多く、いやちゃんと最低限説明はしてくれるんだけれども、一回は読んだよね?みたいな話の進み方だったようなそうでもないような。頭いい人は頭いい人のコミュニティにいるんだなあと見せつけられた感というかなんというか。原著フランス語で著者本人が日本語版を出したって言うからまあそういうことなんでしょう。というかそれだけ頭のいい人が頑張って説明してくれてこの難易度の高さ、どういうこと……。余談ですが敷衍ってことば初めて知りました(たいてい本筋と関係ないからサクッと流してたけど意味そういえば知らないな?ってなった)。簡単に噛み砕く的な意味なのにこの熟語自体が難しいの矛盾では……。
以下印象に残ったところ。読みながら書いたメモは以下の通り。・は下で言及している段落ごとにまとめました。

・中心とは境界である、集団という幻想→知ってるつもり、集団の認知、同化に対する反作用→ORIGINALS
・予言の自己成就、自らのアイデンティティのために物語、虚構が必要(自分たちのアイデンティティを奪った日本を恨み続ける)、理想ドリブン、物語としての記憶→歴史学、ピグマリオン効果と言霊
・ルソーと全体主義、虚構が覆い隠されないと、力による支配になる
・因果関係、催眠術をかけられた人
・ノイジーマイノリティのおそろしさ、形骸化「させる」意義(多数派は心に残りにくく、少数派は無意識に残りやすい)
・とはいえこの本ちょっと古いね、でも今見ても新鮮なものもある

・中心とは境界である、集団という幻想→知ってるつもり、集団の認知、同化に対する反作用→ORIGINALS
民族という虚構を生み出すのは、超絶ざっくりいうと人は一人では生きられないから。もうちょっと丁寧に言えば、以前「知ってるつもり 無知の科学」でも言及したように、高度で複雑な文明を築き上げるために、コミュニティとの相互作用によって人間の知能や自己のアイデンティティといったものは形作られるから。と、私は同書を読んで理解しました。正直難解なので他の人は違う解釈をしそうという気持ちはありますが。で、相互作用をするためのコミュニティが必要なんだとすれば、つまり、この境界線の内側は自分の所属するグループで、外側は違う、という線引きをする必要があって、それが民族である、と。 で、日本人という民族の具体例が話しやすいので続けると、冷静に考えて100年も経てば日本人の中身なんてそっくり違うものになる。まあテセウスの船って言ってもいいんですが。そう、紫式部のいた時代の日本人と今の日本人は全く構成している人員が違うのに、同じ民族であると思うのは何故か?みたいな話、もっと言えば、文明開化とか言いながら明治時代に西洋化したにもかかわらず日本人という民族性の連続を信じている、ちょっと強い言葉を使うと錯覚しているのは何故か?という話。 これに関するわかりやすい回答は、ごっそり入れ替わるのではなく、少しずつ変わっていくから、同一性が損なわれていることに気づきにくい。まあアハ体験!とか言われてるように、案外同一性が損なわれているのに気づかないのが人間なんでしょうね。で、本題。もう一つは、日本人の中心というものは変わっていないから、という話。これがなかなかにクセモノで、ちょんまげ、侍、刀、みたいな目に見えるものじゃない。そうではなく、日本人としてのアイデンティティを保持したまま、変われる部分が変わったんだ、っていうんだけど、同書によれば、その「中心」っていうのは、境界線と同義なんだよね。日本人を日本人たらしめる、と、私達が思っているもの、それは、日本人ではない人との差異でしかない。それは、中心を貫いているものではなく、境界線に現れるものなのだ、という。 ……難しいね、ついてきてる?先日読んだ違う本の話を思い出したから書くんだけど(余談だけどこの本自体が難しいから最近読んだ本の例を頭の中で探したり、そんな感じで点と点がつながって楽しかった、みたいなのを延々と書くので覚悟(?)くださいね)、 「ORIGINALS 誰もが人と違うことができる時代」では、アメリカで起こった女性参政権の運動で、最初じゃ手を取り合っていた二人が最終的には分裂しちゃう過程を分析し、自分と似た意見の人はお互いの意見の微妙に異なる部分が気になって結局うまくいかないからやめたほうがいい、意見ではなく手段が似通った人のほうがうまくいく、みたいな話でした。 ここで、民族という虚構に戻るんだけど、同書曰く、ナチスによるユダヤ人の迫害は、ユダヤ人がドイツ人に同化しなかったからではなく、ユダヤ人がドイツ人への同化を積極的にしたからこそ、ドイツ人とユダヤ人の境界がわからなくなった反作用として起こったのではないか、という。 他にも興味深かったのは、日本の同化政策によってかつて日本に移住した朝鮮人の二世、日本語しか知らない人が、日本人と結婚していたとしても、日本に帰化する確率はかなり低い。終生日本で暮らす人の1/4は少ないと言っていいはず。彼らは、ほぼ日本人と見分けがつかないゆえに、自らのアイデンティティとして、先祖である朝鮮人を貶めた日本人を許さない、という物語に縋る、という側面が提示されていて、なるほどなあと思いました。


・予言の自己成就、自らのアイデンティティのために物語、虚構が必要(自分たちのアイデンティティを奪った日本を恨み続ける)、理想ドリブン、物語としての記憶→歴史学、ピグマリオン効果と言霊
自らのアイデンティティとして虚構の物語に縋る、って各地で例があって、詳細は同書を読んでもらえればいいんですが、予言の自己成就、あるいはピグマリオン効果についても言及されていました。日本流に言うと言霊ってやつでしょうか? リンハントの「歴史学」曰く、歴史とは、過去の事実をどう語るか、という今の学問である、とのことですが、過去の事実に対して、その因果関係をどう見出すか、ということは突き詰めれば答えがない。数百年、数千年前に死んだ人が、何をどこまで意図していたか、正確に知る方法はありませんからね。 だからこそ、すべてのアイデンティティを担保している「物語」、具体的に言えば歴史やコミュニティの唱える根拠といったもの、は虚構なのだ、と言えるわけです。先日、「万人に向いているとは思わないけれど、私は理想ドリブンで生きているかな」と言ったらかっこいい、なんて言われてしまいましたが、私はただ、いずれにせよコミュニティによる相互作用の果ての虚構であるならば、私は自分というものがあってそれを言語化するのではなく、自分とはこうあるべきだ、私はこういう生き様を美しいと定義する、としたほうが、少なくとも私は生きやすい、と思っているからですね。結局予言の自己成就によって引きずられるなら、私はせめて、自分の美しいと思うように自分を定義したい、そんなタイプなんだなあと。
・ルソーと全体主義、虚構が覆い隠されないと、力による支配になる
同書の一貫したテーマなのだけれど、民族という虚構を作り上げるのが悪なのではなくて、というか虚構を作り上げられるから人間は高度で複雑な社会性を得るのであって(雑に言えば紙ッペらに価値があるという虚構を作り上げられるから経済は発展するわけで)、生きるためのシステムとして人は虚構を作るんだ、ということをひたすら掘り下げている、という感じ。ある種、桜という言葉はあの桃色の花びらの花を指すのだ、とコミュニティが承認しているから言語による議論が成り立っているとも言えるわけです。 もうちょっと言うと、なにものにも支配されない独立した個というものはありえないわけで(先に書いた通り、なんらかのコミュニティとの相互作用によって価値観というものが成り立つ以上、相互作用元のコミュニティが持っている倫理観といったものには支配される、という言い方ができる……のだけどこの表現だとちょっと著者の意とはずれそうなので同書をぜひ読んでください)、それで無理に個人主義を通そうとしてルソーの全体主義がある、みたいな。この辺むちゃんこ難しかったので誤解している可能性もありますが。要は、というか個人的に印象に残った部分だけを言うなら、独立した個を通そうとすると全体主義、すなわちなんらかの強権を持った絶対支配者(ルソーは多分それが無形というか警察みたいな市民の総意を体現して取り締まるみたいな感じって言ってたから複雑に見えるんじゃないかな)が必要になる。要は、社会秩序を根拠づけるための、自分の集団とは別(あるいは上位)の集団、は人間が人間である限り必要になるんだろうね、みたいな話で、これはカントも言っていることみたい。支配されているという実感が薄れるからこそ虚構は大事なのだ、そういう意味で言うなら、私はこういう意味だと思うんだけど、軍事政権の独裁支配と神による支配、どちらも支配には変わりないんだろうけれども、後者のほうが口当たりマイルドだよね、みたいな話なのかな。
余談だけどここまで書いて寝落ちたので翌日ですが続きいきます。図書館の返却期限的に、「24時間営業のファミレスに行って読み終えるまで帰れまテン」をして、図書館のポストに返却してから帰って、文章を書き始めたのが深夜0:30、最後に時計を見たのが2:00なのでまあさもありなん。良い子はマネしないでね!


・因果関係、催眠術をかけられた人
閑話休題。「知ってるつもり」でも言及したけれども、人間は因果関係が好きなんだよね。大好き。被害者遺族が「どうして私の子供でなくてはならなかったのか」みたいにテレビで言う姿はよく見られるけれども、因果関係が好きだし、あってほしいと願う生き物なんだと思います。で、同書でさらっとあげられていたことに、例えば、「話者が髪をかき上げたら窓を開ける」みたいな催眠をかけられた人の前で髪をかき上げると、当然催眠をかけられているから窓を開けに行くわけだけど、ここで、「なぜ窓を開けたの?」と聞くと、「暑かったから」とか「知っている人の声が聞こえた気がしたので」とか答えるらしい。記憶というもののあいまいさとして語られていたところだけれど、人間の知能がいかに因果関係に偏っているか、それによって人というものは生きられるのだなあとしみじみしたり。


・ノイジーマイノリティのおそろしさ、形骸化「させる」意義(多数派は心に残りにくく、少数派は無意識に残りやすい)
マジョリティの意見は心に残りにくい、らしい。まあ、想像してもらえれば分かると思うのだけど、例えば、新入社員がお茶くみをするみたいな文化があって、それが心底理解できなかったとしよう。で、当然社内の大多数は新入社員お茶くみ賛成(とまでは行かなくってもどうでもいいんだろう)だとして、お茶くみ賛成の上層部が来ているときだけは表面上はやるが、コレなんの意味があるんだろう?みたいなことを考えなくなる、らしい。そんなこんなで、マジョリティの意見に対しては深く考えにくい、っていうのはわかる話で、マジョリティを覆したいなら形骸化すればいいんだろうと思うんだよね。「なんでこれやってるんだっけ?」と皆が思い出せなくなってしまえば、そのマジョリティは崩壊せざるを得ないので。なんてぼんやりと考えていました。このあたりの話について、個人的に興味深いと思ったのは、二つ。一つは、「イヤイヤやらされたことは、イヤイヤながらでもやらなきゃいけなかったことではないか、と後から因果関係を足したがる」話。具体的に言えば、態度の悪い研究者と、優しい研究者、どちらもグロテスクな虫を食べることを要求していたとして、美味しく感じるのは実は前者だという話。態度の悪い奴が勧めてきて、イヤイヤながら食べたら、案外美味しかった、という感想が残るらしい。にんげんってあまのじゃくだよね。あと、マイノリティの意見の方が、無意識に残る、という話。アメリカは行動経済学の国だから本当に何でも実験するんだけれども、補色に何色を見るか、というのは無意識への影響がわかるらしい。まあ納得のいく話ではあるけれども。で、マイノリティの意見、というのは無意識に影響して、見えている色自体は変わっていないように本人は思っていても、見えている補色のほうがマイノリティの意見に影響を受けて変わっているらしい。マイノリティの意見というものは心の片隅に無意識に残る、なんらかの人間の防衛機制ではあるんだろうけれども、興味深いというか悪用のしがいしかないというか。


・とはいえこの本ちょっと古いね、でも今見ても新鮮なものもある
「フェミニスト」という言葉が、女性に甘い男性、みたいな意味で日本語では受け入れられている、それは本来の女性参政権的な意味は日本人的には受け入れがたかったため、レディーファーストな男性を表す言葉になったのだ、みたいな描写があってちと古いなと感じました。ツイフェミとか言ったりするし、SNSの隆盛によってだいぶこのあたりの価値観変わったんだろうなって思います。この本の初版は2002年とか。20年前!?古いのはそうだけれど、今でも十分通用する普遍的な話ではありました。哲学的というか。
個人的に印象に残ったのは、ほら、SF的な話をするとカオス理論とか流行ったじゃない。ラプラスの悪魔、とか。ざっくり言うと、現時点のあらゆるものを数値化できれば、未来は予測できる、みたいな話なんだけれども。同書の補講の部分で(あ、だから読むなら文庫版をお勧めします)曰く、決定論と未来予測可能性との間に矛盾はない。過去の延長線上として未来が決定されることは間違いなく、なのに、カオス理論のような未来予測はきっちりしっかり否定しているんだよね。著者曰く、「箱の中に黒球1個と、白球1個が入っている。箱から球を1個取り出して、色を確認したあと、同じ色の球を足して箱の中に戻すとする。この作業を繰り返していくと、最初の球の投入は白と黒の割合に大きく寄与していたのに、だんだん後に投入した玉の色の重要性は相対的に言えばなくなっていく」という例をあげていて、確かに、過去の行為の延長として(同じ色の球を入れる)しているのに、未来の予測はできない(白球一個、黒球一個から始まっているのに、未来の可能性は無限にとりうる)なあと思って、面白いたとえだなあと興味深く読んでいました。


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