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私の「推しの子」論 第2回 女キリストでありマリアである星野アイ

すでに第1回でも引用しましたが、アクアとルビイの、

「俺たちの父親って誰だ?」

処女受胎に決まってるじゃない」

というやりとりに、母親アイは「これはマズい」と思い、子供たちの父親に、「会ってみない?」と連絡を取ってしまったわけですが。

このやりとり、さりげないですけど、この物語の構造を語る上で重要なポイントでしょう。

皆様もご存じでしょうが、イエス・キリストは、母親マリアのもとに天使ガブリエルが現れ、精霊によって、「父なる神の子」を産むであろうという「受胎告知」をされて生まれてきた、と、新約聖書の福音書には書かれています。

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「受胎告知」 1850年 テート・ギャラリー収蔵

マリアには、大工の夫、ヨセフがいたわけですが、まだ交わってはいなかったのですね。しかしヨセフは生まれてきたイエスが神の子であることを信じます。

こうして見て来ると、じゃあ、アクアがイエスなの?ということになってきますが、この物語では、そうではないようです。

再び第1回から引用しますと、プロダクション社長夫人がアイの秘密をばらそうと、母子手帳の写真を撮り始めた時、アクアとルビイは、夫人に向かってはじめて言葉を発します:

アクアは、

「待て。
 我は神の使いである。
 哀れな娘よ」

ルビイは、

「慎め。
 我はアマテラスの化身。
 貴様らの言う神なるぞ。

 貴様は目先の金に踊らされ、
 天命を投げ出そうとしている。

 星野アイは芸能の神に選ばれた娘
 そしてその子たちもまた、
 大いなる宿命を持った双子」

これを、2人のとっさの思い付きではなく、真実であるという仮定に立ってみましょう。

すると、面白いことになります。

アクアではなくて、ルビイの方が、女神アマテラスであり、アクアはあくまでもその従者という関係になってまうわけですね。

しかし、それはこの後の物語の展開に一致してきます。

アイの後を継ぐアイドル歌手の階段を上がるのがルビイであり、役者修行をしつつもアイを支え、アイ殺しを挑発した真の犯人・・・恐らくアクアとルビイの真の父親を捜していくのがアクア、という構造になっているわけです。

しかし、恐らく物語の中では、アイに2人の子供を宿した父親は、"X"という符号であり、容易に謎解きされないまま物語は進むでしょう。

これは当然のことですね。

そして、"X=神"であり、アイは「神」と交わっていたのだという壮大な仮説を立てることが可能になります。

更に、「神の子」ルビイは女キリストとして布教活動をはじめる、ととらえてみるのも面白いかと思います。

*****

ところが、これと少し矛盾するかとも思える仮説も立てられます。

アイの父親について、物語の、少なくとも最初の方では全く語られていない。

つまり、これも”X”のままです。

こうして、アイ自身もまた、母と「神」の交わりのもとで生まれた「神の子」であるという仮説は可能です。

つまり、アイ自身が母親の処女懐胎で生まれたということ。

アイの母親と交わったのも、アイと交わったのも、同一人物の「神」である、という、もろ、近親相関的関係性すら仮定できるという、とんでもないことになります。

*****

さて、アイは、ほんとうに「愛してる」と言える日が来ることを願って、アイドルとして精進し、ファンに対して、救世主として「布教活動」を続けますが、これもアイ自身のセリフとして語られている通り、

うそが本当になることを信じて
その代償が、
いつか訪れるとしても。

つまり、アイは自分がいずれ殺される可能性を覚悟していた。

これでいよいよキリストということになってしまいます。

キリストは、聖書の中でも、自分がいつか殺されること(さらには3日後に復活すること)を予言しながら布教活動をしていましたから。

そして、アイは、十字架にかかったわけではありませんが、刺されて死ぬわけです。

そして、その死の直前に、はじめて、アクアとルビイに「愛している」というメッセージが伝えられる。

二人は、アイの死に行くさまになすすべもなかった。

これは、最後の晩餐の後で、イエスに、

「あなたは、鶏が鳴く前に、3度わたしを知らないと言うであろう」

と予言され、実際3回知らないと言ってしまって、後悔の念にとらわれた使徒ペテロの立場と似ています。

ペテロは、その「償い」として、ローマに布教活動に出向き、十字架の刑を受けますが、初代ローマ法王として扱われるようになります。

忘れてはならないのは、我が子イエスが殺されて一度は死ぬこと自体が「父」なる神の「意志」であり、使徒のひとりユダに裏切らせたのも神の意志であることです。

これは、アイを殺させたのがアイの「父」の意志だったことと見事に符合します。

*****

TVシリーズ数話分ある、アニメ第1話の終結には、作画の素晴らしさもありますが、荘厳なまでの感動があるわけです。

ここには、明らかに、昔から語られてきた神話の再現、宗教的な次元にまで昇華された世界があります。

私はこうしたことが、原作者の脳裏に全然浮かんではいなかったとは思えません。

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最後に。

歌手として、セルフ・プロデュースを徹底した転換点は、浜崎あゆみでしょう。

彼女と、彼女を見い出したaxexのプロデューサー、松浦勝人氏と実は恋愛関係にあったというのは確かでしょうが、松浦氏は、「実はPVやライブの演出は、最初からayu自身がアイデアをみんな出していて、自分は好きにさせていた」という凄いことを語っています。

「歌手あゆ」を冷静に見つめる、プロデューサーとしての「もうひとりのあゆ」がいる。

そういう2人の自分がいるという関係性をプロモーションビデオで描いたのが、"evolution"。

そして、今度は、歌うあゆマリアあゆというふたつの人格を描いたのが、"M"。


あゆは自分の歌の歌詞を全部自分で書いていますが、そうした歌詞に「いつわりの自分」「ほんとうの自分」という言葉がしばしば現れるのはご存じの方も少なくないかと思います。

Adoや、「推しの子」のテーマソングを歌ったYOASOBIをはじめとして、こんにちでは、アーティストがプロデュースに主体性を持っていることは当たり前となりました。

そうした現状を、「推しの子」は見事に映しだしています。

AdoもYOASOBIのikuraも、リアルワールドで、自分がマリアのような存在、救世主としてみられ、そこに宗教的ともいえる共同体が生まれる重荷に耐えていると思います。

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(第3回 タイトル未定に続く)







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