東畑開人 著:「ふつうの相談」レビュー

大学院で、ある特定の流派の「心理療法」を自分のオリエンテーションとして学んだだけでは、「現場臨床」では通用しない。

これは、すでに私がかつて「精神分析の歩き方」をレビューさせていただいた、山崎孝明氏も強調していたことである。

東畑開人氏の「ふつうの相談」は、このテーマについて、新鮮で包括的な視座を与えてくれる名著であるというのが、本書を2回通読した私の結論である。

この本の、まずは凄いところは、特定の流派の「心理療法」の現場での適用に対するアンチテーゼとして、誰もが日常、お互いを支えあうために取り交わしている「ふつうの相談」や「ふつうのアドバイス」を、むしろ中心軸としてとらえるという、「コペルニクス的転回」の仮説を提起したところにある。

著者がとり上げている例のひとつを示そう:

三週間に一度のカウンセリングなのだが、前回は彼女がコロナに感染したため、ひと月半ぶりの面接。
「急にキャンセルしてほんとにすいません」
「実は僕もかかりました、死ぬかと思った」と伝えると、笑う。
(中略)
「でも、そのあと夫と息子は言い争いになっちゃって、今度は一言も口をきいてくれなくなりました」
沈痛な気持ちになる。夫が職場で不遇であることによってストレスがかかっていることや、息子が彼女には少しだけ心を開いていることについて話し合っていると時間になる。
終わり際に「ああ、嫌になっちゃいます」と彼女はどこかぶっきらぼうに弱音を吐く。辛いのだろう、と思い励ましたくなる。
「本当ですよ、気分転換に何か贅沢した方がいいんじゃないですか?」
「実はこのあと、デパートに行く予定です」
私は笑ってしまう。
「いいじゃないですか、高いもの買うと元気出ますよ」
彼女も笑う。
また三週間後の約束をして、面接を終わる。

pp.20-22

私なりの想像だが、rigidな「精神分析系」のカウンセラーだったら、

「こんなの、彼女が葛藤から『行動化』に移して逃れるのをサポートしているようなものだ」

とか、

「抑うつからの『躁的防衛』を肯定している」

とか言い出すかもしれない(^^;)

だが、日常的な悩みの解消法としては、誰もがやっていることである。

そして、日常の中で、相談を受けた場合も、このようにアドバイスするのは、典型中の典型、まさに「ふつうの相談」であろう。

これで、特に何も問題ないことが多いわけだ。

ただ、私が思ったのは、東畑氏のここでの女性への「アドバイス」は、実は女性の心情を十分に「慮(おもんば)かった」上での発言であるということだ。

例えば、親にひどいことを言われ、時には手をあげられ、あざや傷まで身体に残しているのを繰り返している十代の友人に対して、

「それって、『ふつう』じゃないよ。はっきり言って、『虐待』じゃない?児童相談所や警察に相談した方がいいんじゃない?」

とアドバイスした場合には、いい意味での「普通」の感覚=村瀬嘉代子のいう「常識」=カントの言う「世間知」が発動していることになる。

ところが、たとえば、うつ状態で引きこもりの友人に対して、

「少しは外に出て運動したら?
 もう少し頑張れるのが『ふつう』だと思うけど」

とアドバイスしたとすれば、無神経で、傷つける応対以外の何物でもないのは明らかである。

「ふつう」であることには、そういう「光」と「影」があることを、東畑氏は、もう少し公平に論じてもいいのではないか?

もっとも、東畑氏はこうしたことに決して無自覚なわけではない。

この本の別の個所で、「ふつう」ということが、そのコミュニティや社会におけるマジョリティーな価値観への「順応」への圧力となる場合があることを、はっきり指摘している(p.104)。

*****

さて、援助的専門家における「ふつうの相談」とは、各人のおかれた状況(文脈)によって、異なったものになることを、東畑氏は、次に指摘する。

東畑氏の場合は、開業心理オフィスという「個室」において、料金を直接クライエントさんからもらう、という状況にある。

実は、心理職の中で、自分の主なる業務形態として、こうした独立開業の形をとれていることは、日本では少数派である。

更に、東畑氏が教育を受けて来た、拠って立つ「心理療法」(カードA)は、精神分析的なものである。

それに対する「カードB」が「ふつうの相談」である。

多くのカウンセラーは、3枚以上のカードを持つことまでは無理だろう、これでいいのだというのが東畑氏の慰め(?)である。

つまり、精神分析を身につけていて、認知行動療法もできて、EMDRも状況に応じて使い分けられる、というところまで、マルチプレーヤーである必要は必ずしもないのではという意味のことを述べている。

こういう意味では、東畑氏の見地は、むしろ安易な「折衷主義」とは一線を画している点には注意が必要である。

東畑氏が強調しているのは、必要があれば、ベースラインとしての「カードB」としての「ふつうの相談」に立ち返れるということなのだ。

*****

さて、東畑氏は、次に、そうした「ふつうの相談」で用いられる技法にいて列挙して、わかりやすく説明して行く(pp.50-61)。

列挙すれば、

1.聞く
2.質問する
3.評価する
4.説明する
5.アドバイス
6.環境調整
7.雑談・社交・世間話

それぞれの内実については、本書自体をお読みいただければと思う。

*****

東畑氏のいう「ふつうの相談」とは、内的な探求というよりも、現実的な問題の解決をめざすことを指向する性格を持つ。

東畑氏が「ふつうの相談」の機能として列挙したのは次の通り:

1.外的ケアの整備
2.問題の知的整理
3.情緒的サポートの獲得
4.時間の処方と物語の生成

それぞれの内実については、本書自体をお読みいただければと思う。

*****

東畑氏の考察は、ここから文化人類学的見地からの、メタな比較心理療法比較論へと飛翔する。

ますは、レヴィ・ストロースにおける、シャーマニズムと精神分析の比較。

精神分析は「個人的な神話」を患者自らが創出する。

これに対して、シャーマニズムでは「社会的な神話」を外から与えられる。

*****

次に、進化人類学者、クラインマンのヘルス・ケア・システム論に進む。

クラインマンは、あらゆる社会に、人々は心身の不調に対応し、健康を追求するための仕組み(システム)が備わっているとし、それは以下の3つのセクターから構成されているとした:

1.社会的に公認された専門家たち(医者など)による専門職セクター
2.占い師や拝み屋のようなオルタナティヴな専門家たちによる、民族セクター
3.知り合いや隣人、親類、さらに素人の権威者に助言を求める民間セクター

後者ほど、広範囲をカバーしている、日常的に機能している「ふつうの相談」に近づく。

少し脱線して、レビュアーである私なりに日頃から思っていることを述べれば、2の「民族セクター」には、お坊さんや牧師なども含まれると思うが、心理療法家は、祈祷師だとか、こうした「民族セクター」にクライエントさんが頼ることをあまりよく思わない傾向があると思う。
しかし、センスある、良識的な占い師や祈祷師は、下手な心理セラピストより援助的な役割を果たしていることが少なくない。むしろそのことは「利用」すべきだと思う。
更に言えば、臨床心理士でも公認心理師でもない「民間資格」しか持たないけれども、クライエントの役に立てるだけの実力は持っている「カウンセラー」や「コーチング」指導者、「コンサルタント」なども結構いることも、率直に認めるべきだろう。
更に言えば、セクター3とセクター2の中間セクターも考えられる、美容師やフィットネスジムコーチ、飲み屋のおかみさん、ホステス、そして、敢えて言うが、風俗の人たちである。

*****

さて、次に、東畑氏は、クラインマンに従い治療における「説明モデル」の話題に進む。

「説明モデル」とは「臨床に関わっている人すべてが抱いている病気エピソードとその治療についての考え」であると定義されている。

呪術師であれば「おまえに取り憑いている『霊』」の仕業であり、それをお祓いや、シャーマン自身が憑依されることで解消するわけである。

これに対して、

心理療法家:心理すること
精神科医:生物学すること
ソーシャルワーカー:社会すること
古代ストア派:哲学すること

となる。

こうした説明を、ユーザーが納得し、共有できるかどうかが、その後の治療的共同作業の行方を決定づけるわけである。

さて、ここでもう一回レビュアーである私の「脱線」にお付き合いいただきたい。
精神医学における診断基準(DSM/ICD)が、クレペリン以来の記述精神医学と、フロイト的な力動心理学との間で覇権を争い、揺れ動き、結局、原因論を廃した操作的定義で折り合いをつけている、実は危うい仮説的構造物であることは多くの専門家が感じていると思う。
精神科医の場合には、この操作的・行動主義的診断基準に加えて、神経生理学的見地からの、薬物療法のための診断という次元が歴然と存在する。
思うに、実はDSM的な診断基準に基づき、薬物のエビデンスを図ることは、本質的に不毛ではなかろうか。
DSM的診断基準は、脳神経科学的な作用機序を何も担保していないからである。
むしろ開き直って、「薬が効くかどうか」で診断基準にしてしまえばいいのではないか?
例えば、活動性の高さ、関心の移ろい、忘れ物のしやすさなどは、「軽躁状態」にも「ADHD」にもみられる。
これをDSM的診断基準だけで鑑別することには限界があると思う。
一方は「気分障害」の軸であり、もう一方は「発達障害」の軸の上に乗っていて、そもそも物差しが違うわけである。
ここで、「抗てんかん剤やリチウムが効けば双極性障害、精神刺激剤(コンサータ)が効けばとADHD」とまで「開き直って」薬理学的鑑別診断をしてしまう方が、「潔い」のではないかと思う。
もとより、安易な投薬変更による、患者へのダメージは生じてはならないものではあるが。
私見では、こうした「生物学主義・脳神経科学的」診断と処方についても、心理職は、もっと主体的な関心を持つべきであるし、専門教育も早くからなされていいと思う。

*****

さて、東畑氏は、今度は #中井久夫 氏の「治療文化論」における、

「普遍症候群」・・・近代西欧における診断分類にあてはまる。
「文化症候群」・・・地域性を持つ。「キツネ憑き」など。
「個人症候群」・・・「創造の病」など。

という3次元の分類の話題に振る。

後者ほど、周囲の人の「熟知性」・・・その人が、どういう人で、どういう状態におかれてきたか、などの個人情報的なものを含む・・・によって支えられている。

「個人症候群」としてとえるだけでは苦痛が過ぎる状態になった時、はじめて人は、精神科医やカウンセラーの門を叩き、周囲もそういう専門家のもとを訪ねることを勧めるわけである。

地域コミュニティ(そして、宗教的コミュニティ)がなくなった今、特に都市部において人々は孤立しており、周囲の人への「ふつうの相談」をリソースとして活用できない。

援助的専門家に依存せねばならいわけだが、ところが専門家の方は、「ふつうの相談」という「カードB」をうまく使いこなせず、硬直した「専門バカ」として、「カードA」の使用にのみこだわることは、ありがちかと思う。
(以上、東畑氏の主張と思われる内容を、私なりにかみ砕いてみた)

ここからは、また、レビュアーである私の「脱線」、我田引水である。
精神科医の中には、同じ機関で雇われている心理職に、たいへんな敬意を払って、連携「パートナー」として取り扱って下さる先生方もいる。
その一方で、「心理テスト屋」としてしか扱わないケース、「認知行動療法」を「医師の指導と監督のもとに」行わせること以外は、カウンセリングや心理療法に全く無理解というケースもままあるわけである。
フロイトとかユングとかになると、まるで読んだことがないような精神科医はこの世にゴマンといる。
逆に、ケースワークとなると無知、例えば障害年金や生活保護制度、就労支援についてとなると全く知識のない心理職というのも結構いると思う。
こうしたものは、東畑氏の分類を勝手に拡張して敢えて言ってみれば「カードC」の領域かもしれない。

少し話題が変わるが、専門職のGeneral Artについての教育が、日本の養成大学ではまるでなされていないのは大いに問題だと思う。
欧米の高等教育では当然学ばされる領域であり、そうした下地のうえに心理職としての専門教育はなされているわけである。

カウンセラーは、「世間」を知らない、自分の専門以外には疎く、クライエントの語る話題について行けない、そもそも「話し相手」として物足らなさすぎるとみなされているというのは、ありふれた光景だろう。
産業領域のカウンセラーのはずなのに、給与制度や雇用制度をまるで知らない、経済情勢に無関心、そもそも働くサラリーマンの辛さを理解していないとか。
あるいは、引きこもりでゲーム依存でアニメばかり観ているが、コミケなどの同人誌即売会やアイドルのライブには足を運ぶ「おたく」のサブカルチャーにまるでついて行けないカウンセラーなど、いかがなものであろうか?
「ゲーム依存症」の治療をしようという治療者自身が、自分でひとつのゲームでいいからクリアしたことがないなどという事態があれば、もう笑うしかないであろう。
こうしたことも、カウンセラーの、カントが言う意味での「世間知」の問題の一部であり、「ふつうの相談」能力に関わると、私は考える。 

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実は、「ふつうの相談」という本には、まだ若干続きがある。

しかし、その部分のかなりの内容を、私はこれまでの部分で、実質的に述べてしまっていると思う。

そこで、とりあえずこのあたりで、私の今回のレビューの筆を置きたい。

重要な追加事項があると考えた時点で、適時付け加えていきたい。

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【追加】:

#臨床心理士#公認心理師 よりエラいと思いがちだが、前者は未だに心理療法中心の専門教育を受けていて、現場の職域別の教育に視点を置いた訓練に弱みがある。 後者は職域別の現場教育に軸足がある点に強みがあることを東畑さんは指摘している。


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