「ルックバック」の描写が精神障害者差別につなかると批判された問題
すでにTwitter界隈で論じ尽くされているようだが、私も一応書いておこう。
「ルックバック」とは、少年ジャンプ+に掲載された、漫画家をめざす少女たちの物語である。
わたしはすでにこの作品が「精神障害者差別につながる表現がある」と批判され出してから読んでみた。
よくこういう描線の作品が、ネットとは言え、ジャンプに載っていると思った。
そして、セリフを少なめにして、画面に語らせるスタイルも興味深いと思った。私は、こういう「説明的でない」のは好みである。
問題になったのは、美大に男が侵入してくるシーン。
確か、「絵から殺せという声が聞こえる」「オレの作品をパクリやがって」というセリフがあったと思う。
これが、統合失調症の幻聴を思わせ、更に「パクリ」というのが、京都アニメーション放火殺傷事件の犯人を思い起こさせることに批判が集まったのだと思う。
精神科医、斎藤環先生の、この問題についてのnoteへのリンクを張る。
少なくとも、京アニ事件の犯人が、統合失調症でなかったのは明白だと思う。
京アニは、原作募集の意図も持った小説コンクールを催していた。
犯人は小説家志望でもあり、コンクールに応募して落選していた。
そして、落選した小説を、アニメの中のワン・シーンでパクられたと信じてしまった。
それが「思い込み」であるとしても、それ自体は病的とは言い難いと思う。
こういう言い方は被害者に申し訳ないと思うが、ある意味で「筋が通った」思い込みだからである。
彼に、事件以前に、どれだけ、周囲を怖がらせる暴力的な問題行動があったとしても、「精神病的妄想」とは言えないと思う。
もちろん、そうした思い込みの結果として彼がしでかした犯行は、決して許されるものではないし、その極端で暴虐としか言いようがないやり方に、何らかの精神医学的メスが入れられとしかるべきだと思う。
ちなみに、彼は少なくとも「責任能力」はあったと思う。それに応じて裁かれるべきである。
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この世には、歌手が自分のことを歌っているとファンレターや贈り物をする類の人は数多くいる。
ファンレターを数多く送るから、自分のために歌詞を書いていると思いこむのだが、これだけで「妄想」と呼ぶべきかどうかとなると、私はそうではないと思う。
恋愛においても、些細なことを、相手が自分に気があり、自分のために何かをしてくれているというサインだと思いこむことなど、茶飯事だと思うから。
私は「アニメージュ」や「OUT」の常連投稿者であった。アニメの製作者がそれを読んでくれていると思いこんだ。
直接ファンレターを書いたことがある。それに対して実際返事をもらえたことが2回ある。一人の方が実際に会いに来てくださるという過分な光栄に浴したことすらある。名前をきけば私の世代のアニメファンなら多くの人が知っている監督さんである。
その方は、今も現役ながら、最盛期を過ぎたが、もうひとりの監督さんは、現役バリバリで、今も注目作を連発し、熱心な信者も多い方である。その方から、主人公のイラストつきの返事をもらえた。
こういう視聴者との個人的接触は、プロは決してしてはならない倫理のはずなのに・・・である。
そして、実際に「アニメージュ」の編集部を複数回訪問することを許されたし、実際に記事を書いているライターの人(この方は現在は非常に著名なサイトを運営するばかりか、作り手へのインタビューを重ね、様々な企画を取り仕切るなど、アニメジャーナリズムの世界で確かな業績を上げ続けている)と知り合いになり、電話する間柄となった。いろいろ業界のウラ話も聞かせてもらえた。
ただ、電話越しにせんべいの音をバリバリ立てながら話す態度には不快を感じた。
そして、これははっきり書くが、「ふしぎの海のナディア」の、その人が担当ライターを務めると私に言っていた特集記事に際して、私は物凄い誌面批判の手紙を送りつけた。
作者、つまり庵野さんの描きたがったことをまるで理解していない、それはこういう意図だ・・・と。
「アニメージュ」翌月号では、ものの見事に「パクられた」。
京都アニメーションのケースの場合とは全く異なっていて、私の場合には、はっきりとした、リアルな因果関係があるわけだが。
京都アニメーションのコンクールでは、アニメ制作者は、審査に関与することもないばかりか、応募されてきた原稿自体読むことはなかったという。
・・・何か、脈絡からそれた、自慢話のようにも受け取れることを書いてしまったが、私が言いたいのは、「作り手に対して、影響力をふるう」とは、このような次元でなされることと示したいがためである。
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話を戻すと、「ルックバック」の場合に、京都アニメーション事件の影響としか思えない「パクリやがって」というセリフを言わせ、しかもそれを幻聴と関連付け、統合失調症であることを示唆する形になった時点で、事件で生じたことの安易で表面的な引用であり、作者の藤本タツキ氏の勉強不足は否めないと思う。
Twitter上で、ある方が、「ブラックジャックによろしく」の精神科編を読めとツイートしていたが、それはなるほどと思う。あの作品は、相当しっかりしたリサーチをした上で書かれている。池田小事件の再現以外の何物でもない残虐極まりない描写そのものが、物語で不可欠な展開なのだ。
それと比べてしまうと、「ルックバック」の場合には、あまりに表層的な次元でのものであり、物語を進める上で不可欠な展開とは思いにくい。
自分の親友は殺傷事件で殺された。犯人はすでに逮捕されたが、それとは別の男から、今度は自分が殺される危険にさらされる・・・その事自体はドラマの展開として理解できるのだが。
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さて、結局藤本タツキ氏は、自ら申し出て、修正した。
現在読めるのはその修正後の版だけである。
これを歯が抜けたかのように感じる人も数多いようだが、私としては作品の本質は失われていないと思う。
安易に表現の自由の問題にしてしまうのもどうかと思う。
Twitter上では、「ルックバック」の名指しこそしないものの、明らかにこの「修正」問題を示唆するツイートがあとをたたない。
ただ、私なりに、今回の事象をとらえる上で、皆様のご参考になりうそうなことを書いてみた次第である。
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