見出し画像

己の問題に集中しろ

裕福な家庭で起こる虐待のお手本みたいな仕打ちを幼少期から受けて育ったのだが、ときたま貧困家庭で育った人に「金があるだけ勝ち組だろ」みたいな突っ込みどころ満載のボールをぶつけられることがある。
この台詞はわたしにとって非常に許し難く、もっとも怒りを覚えるものだ。

こういった類いの言葉で殴られるたびに、「そんなに金持ちになりたいのなら、生育環境を交換してやるよ。その代わりお前はうちの親父の暴力と、それに対する母親の徹底的な無視に耐えきって見せろよ。話はそれからだ」と言い返してやりたくなるし、端的に言えば殺意が湧く。死ぬかもしれない恐怖を味わったことがない人間が、偉そうに講釈たれてんじゃねえ。本気で死の恐怖を味わってから言葉を発しろ。

そもそも多くの人が誤解していると思うのだけれど、「いくら機能不全家庭っていったって金持ちなんだから金(衣食住)に苦労した経験なんかないだろう」という認識は間違いだ。金持ちの機能不全家庭でだって、親の気に食わないことがあれば食事は抜かれるし、真冬にベランダに下着姿で放り出されて一晩中家に入れてもらえなかったりすることだってある。よその金持ち崩壊家庭ではどうだか知らないが、少なくともうちはそうだった。

お小遣いだって、「私立の学校に行かせて塾に通わせてあげてるんだから」ほとんど貰えなかった。いちばん悲しかったのは、美容院代に金を惜しまれたことだ。

わたしは幼いときは柔らかい猫っ毛のストレートだったんだけれど、初潮を境に髪質が変わってしまい、ゴワゴワの剛毛くせ毛になってしまった。けれども縮毛矯正代を渋られていて、施術した日に美容院から帰って来てレシートを見せると毎回顔を顰められた。縮毛矯正自体も1年に1度くらいしかかけさせてもらえない上に、「子供のくせに髪なんかに金かけんでもいい」と文句を言われることが怖くて、トリートメント代までねだることができなかった。おかげで髪の毛はいつもチリチリで、それを同級生によくいじられた。思春期だったので辛かったし、そのことは今でも思い出すたびにしんどくなる。

そのわりにハイブランドの子供服には惜しみなく金を出していたのだけれど、それはわかりやすく世間体を保つためであり、わたしがかわいいから買い与えていたものではなかった。

自分の家が周囲よりもいささか裕福であるということには、幼いときからもちろん気がついていた。気がついていたからこそ、勉強以外のことには一切金をかけてもらえないことが余計に悲しかった。本当ならあの子よりもたくさんおもちゃを買ってもらえるはずなのに、といつも口に出せない不満を抱えていた。両親はわたしの喜ぶ顔には興味がなく、成績それのみにしか注目していないことを、ひしひしと感じながら育った。

現在、わたしは結婚して、わたし自身も収入を得ているのだが、心療内科の診察代とカウンセリング代は、親に請求している。わたしをこんなふうにさせたのは親であり、責任の所在は親にあり、親が出すのは当たり前だからだ。わたしにいくら自分の金で払う能力があろうと、それとこれとは関係ない。当然の権利として、慰謝料として、みじんも遠慮することなく、その金は受け取っている。

このことについて、ときおりわたしのことなど1ミリも知らない人――特に貧困家庭で育った人に、「甘えだ」「金があるだけマシだ」などとキレられることがある。そのたんびに「おまえには関係ないだろうがよ」と毎回思う。

貧困家庭で虐待を受けていた人からそういった八つ当たりを食らうのは、まあ百歩譲ってまだわかる。タチが悪いのは、貧困家庭で「虐待サバイバーでなく、機能不全家庭だったわけでもなく、貧困という問題を除けば概ね平穏に育った人」からの攻撃だ。毎日毎日「今日こそ殺されるかもしれない」という死の恐怖と隣り合わせの子供時代を送ってきたわたしから言わせてもらえば、それこそ「甘えてんじゃねえよ。優しいママのおっぱいでも永遠に吸ってろ」という話である。

でも、そういうわたしの考えもまた、以前自分自身で書いた「不幸マウント」に当てはまっているんじゃないか、とはたと気がついた。

わたしには貧困の苦しみは理解できない。貧困家庭で育った人の悲しさや悔しさは想像することしかできないし、その域を出ることはたぶん死ぬまでない。きついことだけれど。
そして同じように、「貧困家庭出身で虐待経験のない人」も「貧困家庭出身で虐待サバイバーの人」も、「裕福な家庭出身の虐待サバイバー」の気持ちを知ることは不可能だ。

「貧困家庭出身の虐待サバイバー」の中には、うちのように親から診療代を強奪することも現実的に不可能だったりする方もいると思う。そのことについて、「同じ虐待サバイバーでも金があるだけマシだろう」という妬み嫉みの感情を覚えることは当然かもしれない。けれど、その怒りをわたしにぶつけないで欲しい。そこにわたしは関係ないし、当然わたしに責任はない。頼むから自他の境界をきっちり明確にして、問題をごっちゃにしないでくれ。

生まれてくる家庭の経済状況なんて、もちろんのことわたし自身が選べるわけもない。わたしがたまたま診療代ないしカウンセリング代を親に支払わせられる状況にあることに怒りを覚えられても、そしてその怒りをぶつけられても、知らんがなとしか言えないのだ。怒りをぶつけるべき場所は、わたしではなく自身の家庭や両親だろう。なぜそこで関係ないわたしを引き合いに出し、わたしをぶん殴る必要がある?

全人類がそういう意味合いにおいて平等なわけはないんだし、そこであいつは自分よりマシな状況だから云々とグチグチネチネチ言い続けたって、自身の問題は解決しない。「虐待を受けなかっただけマシだと思え」というわたしの叫びだって、金銭的に困窮した経験のある人の苦労と自分の境遇を天秤にかけて、自分の方がより不幸だと喚いているだけに過ぎないのである。

結局のところ、各々が抱えている各々の問題は、各々の境遇の中で各々の力によって解決していくしかないのだ。自分の方が不幸だった、苦労しただのと喚いているだけでは、一生そこに留まるだけになってしまう。その悔しさはわかるけれど、それでも生きることを選ぶのなら、腹を括ってなんとかやっていくほかない。他人を羨む暇があるんなら、自分のことを考えてくれ。本当に。

わたしはもう、他人に対して不幸マウントは取りたくない。疲れるだけだし、他人の不幸を――ここで言えば貧困家庭で育った人の苦しみを、軽視したくはないのだ。そしてもう誰にも、不幸マウントを取られたくない。わたしの苦しみや悲しさだって、等しく軽視されていいものではないのだから。

読んでくださってありがとうございます。サポートは今後の発信のための勉強と、乳房縮小手術(胸オペ)費用の返済に使わせていただきます。