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個性からしかチームワークは生まれない

成熟社会を生きている

2008年の人口減少を機に、日本は「成長社会」から「成熟社会」へと転換したと言われている。「成長社会」では、「不足」、「不満」、「不便」が社会に蔓延していて、「早く正解を出す力」が一人一人に求められ、その力の集合体が日本社会を成長させた。学校もその役割を担った。
 
東京都初の中学校の民間人校長として、5年間杉並区立和田中学校の校長を務めた藤原和博さんは「成長社会から成熟社会への変化」についてこうおっしゃられる。
 
『成長社会から成熟社会への変化とは、「正解至上主義の教育が正しかった時代」から「正解至上主義では通用しない時代」への変化でもある。戦後、日本の高度成長社会では「大きい事はいいことだ」、「早いことはいいことだ」、「英語で話せることはいいことだ」と言うように社会的な正解がはっきりしていた。だから、学校ではひたすら正解を覚えさせたり、正解の出し方を練習させたりした。
正解至上主義の教育が行われた結果、答えを早く正確に当てられる「早くちゃんとできる良い子」が増産された。戦後50年はこれでよかった。正解だった。ところが、成熟社会に入ると、すべてのモノ・コト・ヒトが多様化、複雑化し、変化が激しくなった。一様ではなくなり、平均が意味をなさなくなった。成長社会から成熟社会への変化は、「どんどん正解がなくなっていく変化」でもある。』
 

尖った個性から生まれるチームワーク

変化が激しい「成熟社会」では、「平均化」よりも一人一人の「個性」、すなわち「尖り」が重要な役割を担ってくる。学校において、「成長社会」のときの教育のように、子供のもつ「尖り」を削り、「集団を整えること」を優先することが必ずしも正解ではなくなっている。
しかし、「良い集団でこそ、個性が育つ」という紛れもない事実もある。「集団を整えること」と「尖った子を尊重すること」の水と油のようなものの共存が求められ、多くの教員が「個」と「集団」のバランスのとり方に細心の注意を払って教育活動に取り組んでいる。

そんなことを考えていると、ある言葉とこの前であった。
 
『我々の間にチームプレイなどという都合のよい言い訳は存在せん。あるとすればスタンドプレーから生じるチームワークだけだ。』
 
行き着く先は「チームワーク」であるが、「始まり」が異なる。「集団から始まるのか」それとも、「個から始まるのか」。この言葉には、チームプレイというのは、スタンドプレーの延長線上、つまり、「尖った個性」が伸びた集合場所にしかチームワークは生まれないと断言している。

教室の尖った個性とチームワーク

先日教室で「尖った個性から生じるチームワーク」が見られた。プログラミングが得意なある子が、自分がプログラムして作ったゲームを教室のスクリーンに映し出し、みんなの前で発表した。とても素晴らしいもので、子供たちは椅子からお尻を浮かせそのゲームに食いつき、教室は大いに盛り上がった。
危険な暑さが続き、休み時間に校庭に出られない日が出てきた。そんな時は、その子の作ったプログラミングゲームに人が群がる。まだ、自分優先の年代。譲ることを今、覚えている年代。「誰が先にやるのか」「どうなったら交代なのか」大人から見たらそんな些細なことでも衝突が起こる。そんな様子を片目で見ていると、次第に自分達でルールを決め、物事を整えていく様子が見られた。中には、「作り方教えて!!」という声も聞こえる。本人も「また発表したい!!」ととても更なる意欲がみられる。何か一体感のようなものが芽生え、「尖った個性から生じるチームワーク」が生まれているのを少なからず感じた。
心身ともの安全性を確保しつつ、子供が頑張れば解決できそうな課題をいい塩梅で残していくのが、教員の役目で、そういった環境が「尖った個性から生じるチームワーク」を生んでいくのだなと、改めてそう感じさせてくれた瞬間だった。


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