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学校がウソくさい

管理職に読んでもらいたい

「学校がウソくさい」
随分インパクトの強い題名である。
日本では、義務教育を終えていない人を探す方が難しいわけだから、「学校がウソくさい」となると、まるで全日本国民が体験してきたことを否定された気になるだろう。
しかし、本書は決して「日本の義務教育を受けてきたあなた達は後悔しなさい」と言いたいわけでない。変化が目まぐるしい社会の中で、変化を嫌う日本の学校への課題と対処法を自身の民間校長としての経験を基に提言している。
著者は「教育活動の正常化し、教員にもっとよい仕事をしてもらうには、どうしたら良いかと言う問いかけに答える形で出版された本である」
と言う。子供を学校に通わせる親や教育現場で働く教員だけではなく、現役管理職にもぜひ読んでもらいたい1冊である。

藤原和博とは?


1955年東京生まれ。東京大学経済学部卒業後、株式会社リクルート入社。東京営業統括部長、新規事業担当部長などを歴任後、ヨーロッパ駐在、そしてリクルート社初代フェローとなる。2003年より都内では義務教育初の民間校長として杉並区立和田中学校校長を5年間務める。2008~2011年橋下大阪府知事特別顧問。2016年から2年間奈良市立一条高校校長として生徒所有のスマホを授業に活かし「スーパー・スマート・スクール(SSS)」化。
65歳から史上初生徒が全員先生のオンライン寺子屋「朝礼だけの学校(あさがく)」を開校し校長を務める。そして様々なテーマを取り扱うYouTube藤原和博チャンネル登録数は1万人超。ライブ講演は1800回。

学校教育だけで学力は上がらない

学校での授業は年間800時間を超えない。45分授業が5、6時間あり、それが、175日程度。一方、児童生徒の生活時間は、起きている時間を16時間として365日で約5800時間だから学校での授業は全生活時間の13%程度だけである。
テレビとゲームで1日3時間になれば年間1000時間以上になりますから、主要教科をその半分の時間しか学ばない学校だけの力で書く力が上がるわけがないんです。
ちなみに国語は年で100時間程度ですから、日本語より確実にテレビやゲームの言葉を話すようになるでしょう。またかたやサッカーなどの部活に全力投球して1日3時間の練習を土日も含めて365日だってアスリートとして1000時間学ぶ。
学校での授業の時間に「何かを身に付けさせたい」または何かを身に付けてもらいたい」要求するのは、困難がことであることを証明している。もし、「何かを学ぶもの」を明言するなら、大きく2つある。それは、
「学びを楽しいと思えること」
「集団で生活することの喜びと苦労」である。

成長社会から成熟社会への教育

日本の成熟社会は、1998年から始まった。
成長社会から成熟社会への変化とは、正解至上主義の教育が正しかった時代から正解至上主義では通用しない時代の変化でもある。
戦後、日本の高度成長社会では
「大きい事はいいことだ」
「早いことはいいことだ」
「英語ではなすことはいいことだ」
と言うように社会的な正解がはっきりしていた。だから、学校ではひたすら正解を覚えさせたり、正解の出し方を練習させた。
正解至上主義の教育が行われた結果、答えを早く正確に当てられる「早くちゃんとできる良い子」が増産され、産業界に処理能力が高いホワイトカラーブルーカラーとして送り出された。
戦後50年はこれでよかった。正解だった。
ところが、成熟社会に入ると、すべてのモノ・コト・ヒトが多様化、複雑化し、変化が激しくなってくる。一様ではないし、平均が意味をなさなくなる。成長社会から成熟社会への変化は、どんどん正解がなくなっていく変化でもある。学校で「正解を教える授業」はもう役に立たない。

学力のフタコブラクダ型

先生が黒板と教科書で生徒に一斉に教えるのは20年前から既に無理があった。子供たちの学力は、普通の子が7割いるような山型ではなく、低学力で「おちこぼれちゃった子」と塾に通っていてもわかっちゃってる「吹きこぼれの子」がどこが激しく分かれるフタコブラクダ型になっている。
真ん中の普通の子に向けた一斉授業はなおさら意味をなさない。真ん中で授業をするのは、お客さんのいない場所で落語をやっているようなもの。
では、どんな授業形態が、このフタコブラクダ化されている教室では望ましいのか。それは、「教え合い」である。教師は本時の「考える課題」だけを提示し、まずは一人一人に考えさせる。
そのときに、教師は一言付け加える。
「自分が分かるだけでは本当に分かっているとは言えないよ。友達に分かりやすく説明できるようにしてみよう」
すると、「吹きこぼれ」たちは一生懸命絵や図を描いたりして考える。出来ない子たちもまずは自分一人で考えてみることで「何が分からないのか」が分かるようになる。そのあとは、「吹きこぼれ」、「できない子」を組ませ、グループ内で教え合いをさせる、すると、授業が盛り上がる。「普通の子」で分かっている子は「吹きこぼれ」に刺激をもらい、一緒になって分からない子に教え始める。「普通の子」で実は分かっていない子も「吹きこぼれ」に教えてもらえたり、「できない子」と一緒になって一生懸命分かろうとしたりする。学校は色々な子がいるから「学び」が成立する。学校は色々な人が集まらなければできないことをする場所である。

コミュニケーション能力を上げるのはナナメの関係

親子がどんなに仲良くても、コミニケーション能力が育つとは限らない。学校の先生が指導しても同様だ。なぜなら、親子や先生、児童の関係は、上下関係を基本にする「タテの関係」なので、子供にとっては結局のところ忖度の対象になるからだ。本音が生まれそうで生まれないのである。
一方、LINEに入ってる友達の数がどんなに起きてもコミニケーション能力の向上にはつながらない。友達同士と言うのは、「ヨコの関係」で同じようなテレビや漫画を見たり、ゲームをしたりして育つから親子と同じように、阿吽の呼吸で通じてしまう。
だから、子供のコミュニケーション能力を高めたいと思ったら、「ナナメの関係」を豊かにするしかない。お兄さん、お姉さん、おじさん、おばさん、おじいちゃん、おばあちゃんと言うような直接の利害関係がない第三者との関係である。必ずしも血がつながっている必要はなく、コミュニティーの中で息子や娘にとってそうした役割を担ってくれる存在のことを指す。

減点方式ではなく、加点方式

「これができない」
「あれもできない」
ではなく、
「これができる」
「あれもできるようになった」
と「can do it」でみる。
教員が加点主義で行えば、児童の自己肯定感が上がることは間違いない。長所に目が向くようになる。

信用とは幸福の源泉である

信用とは、全人生を通じて積み上げていくものであり、信頼と共感の関数であると考える。他者から与えられる信任の総量と定義していて、これが高ければ人々はあなたにもっと大きな仕事を任せたいと望むだろうし、あなたの選択肢や自由度はそれに伴い広がっていく。だからこそ、信用とは人生における幸福感の源泉だと言っていい。

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