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坂の途中の家(小説感想)_子育ての困難さと、他人と理解し合うことを考える

2016年に刊行された角田光代による小説。ドラマ化もされたそうだがみていない。
山咲里沙子は専業主婦で2歳の文香(あやか)と夫の陽一郎と3人で中央線沿線に住んでいる。陽一郎は設計事務所へ勤めており、仕事の付き合いで帰宅の遅くなることが多い。
ある日、里沙子は刑事裁判の補充裁判員に選ばれてしまい、乳児を虐待死させた母親(安藤水穂)の裁判を担当することになる。

角田光代の小説をはじめて読んだ。里沙子が自分の考えや行動に苦悩して逡巡する心理描写がこと細かく描写されており、かつ本文の多くを占めるために全編を通して雰囲気は暗いし展開は緩やか。しかし不思議と最後までダレることなく読みやかった。以下ネタバレを含む感想などを。

被告人安藤水穂の境遇へ重ね合わせる里沙子

裁判は安藤水穂という女性が乳児を風呂に幼児を沈めてしまったという事件となり、裁判が進んで日を追うごとに水穂の抱えていた不遇な状況が徐々に顕になる。
「思い込みが強く、他人の親切を素直に受け取りづらい性格」「血の繋がった両親と疎遠」「専業主婦で夫による子育てへの理解が足りない」など、里沙子と年齢の違いはあれど、家族関係は里沙子と似たような境遇であった。そのため、里沙子は水穂の犯した罪に対して常に同情的であり、自分の置かれた状況と重ねて考えてしまうようになる。
精神的に追い詰められた里沙子もかつて言うことをきかない文香を叩いてしまったことがあるし、自分ではそうは思っていなくても、文香に対して虐待していると思われてしまう行為をしてしまったりもする。
つまり、殺人の被告人となった水穂と、補充裁判員として裁判へ参加している里沙子の差は紙一重であり、里沙子が水穂と同じ境遇となる可能性が充分にあり得たという恐怖を訴えかけてくるし、水穂へ同情的な里沙子の目線に感情移入したくなる構造となっている。

自己肯定感の低い里沙子

補充裁判員に選ばれたことで身も心も余裕のなくなる里沙子。これは里沙子自身の自己肯定感の低さも関係してくる。これは両親の育て方によるものが大きく影響していると思われる。
里沙子の親は里沙子のことを地元に束縛しておきたかったし、いつまでも無知で、ぐずで、常識知らずで、手のかかる子どもだと思っていたかった。また、母親は陽一郎との初対面の時ですら我が子のことを人前で褒めるようなことはしなかった。

地元にいた頃、里沙子は母に対してこう考えている

息苦しさの原因がよもや母だとは思わない。屈託なく追いかけることはなくとも、意味不明な恐怖をかんじつつも、いや、そうしたものを感じるから、もっと好かれたいとすら、思う、だから里沙子は母に話す話題を巧妙に選ぶようになった。
新しく興味を覚えた世界の話はしなかった。料理の仕方や家事の進め方、商店街のこと、近所のだれそれのことは、率先してあれこれ訊いた。大学にいこうと決意したときは内緒にした。
男の子に恋愛めいた気持ちをもったときもぜったいに言わなかった。何を話してよくて、何を隠さなくてはいけないか、意識せずともわかったいた。

つまり、親子の信頼関係は薄く、育ててくれた恩義は感じているだろうがその程度だろう。里沙子は母から一人の人間として尊厳を認められていたわけではない。
里沙子が他人を信頼して任せたり任せられたりすることが出来るような性格であれば、義母の支援をさらに「利用する」したたかさを持て、余裕の無い状況へ追い込まれることもなかったと思われる。

夫の陽一郎は里沙子を束縛しているのか、里沙子による思い込みか

里沙子を助けることの出来る一番近いところにいるのが、夫の陽一郎なのだが、やがて里沙子は陽一郎の発言や態度も自分を見下しているのでは、と受け止めるようになってしまう。つまり、母が里沙子を束縛していたように、陽一郎も自分に従順な専業主婦でいるように強いている。と考えてしまうようになる。
実際のところどうなのか。明確な解は最後まで無いのだが、二人のやり取りから里沙子の思い込みに過ぎなかったのかもしれないシーンがある。

「私、また働こうかな」里沙子は軽い調子で言ってみる。知りたかった。なんと言われるか。きみには無理だと陽一郎はたぶん言うのだろうけど、どんなふうにそれを言うのか知りたかった。
陽一郎は携帯を手放さいまま、「うん、それもいいんじゃない」と言い、里沙子は驚く。否定されなかった。
「私でも、雇ってもらえるところあるかな」もう一度言う。
「そりゃ、あるでしょ。きみ、七年か八年かは仕事していたんだし」

そもそも、なんでも言いたいことを言える家族が素晴らしいなんて考え方はまやかしだと思う。人と人が理解し合えたとしても、全てのことを共感できるなんてことは、現実には誰にもあり得ないことだ。家族といっても他人なのでそんなことはあり得ない。
ただ、夫婦が一緒にいて同じ時間を共有する。それ以上のことを望んで共感を強いると話しがどうにもややこしくなるのだ。

なので、陽一郎の態度や発言から里沙子を一人の人間としてみたときの扱いが正しいのか否かという判断は出来ない。だけど里沙子が働くことに肯定的な発言をするだけ母よりはマシだと思う。

明確な結論や解決を示さないエンディング

裁判で水穂に対する有罪判決が出て裁判は終わるが、水穂はブランド指向の身勝手な女なのか、夫の寿士はなぜ子どもを死なせた水穂と別れないのかなど、証言をした人々の意見の食い違いや違和感についてはモヤモヤしたまま終わる。
複数の関係者に証言させたところで実際のところは分からないし、その行動が正しかったのかどうかなんて判断出来るものでも無い。ただ過去の凡例より積み重ねてきた判決から「このあたりの罪が妥当だろう」と判断されるだけだ。

里沙子が補充裁判員になって変わったことと言えば、社会における自分の立ち位置を客観的に見れるようになったこと、夫の陽一郎とその家族と少しぎこちなくなったこと、同じく裁判員をつとめた六美という知り合いが出来たくらいだ。
里沙子は裁判が終わったことで、また育児に専念するようになるのだろう。陽一郎が積極的に育児に参加出来るようになるわけではもなく、里沙子と両親の関係性が変わるわけでも無いだろう。つまり裁判への参加を通して露見したいくつかの問題は解決せずにそのままあり続けるということだ。

育児をすることの困難さ

育児で大変なのに陽一郎のために毎日晩ごはんを用意したり、文香にミルクを与えていることを義理母に言えずにいることを後ろめたいと感じたりと、里沙子には専業主婦とはこうあるべきという思いに囚われて自らハードルを上げてしまっているところがある。
これは里沙子自身の性格もあるだろうが、それが常識だという社会的な認知があるからかもしれない。『子育ては完璧に出来なくたっていい』という考えが決定的に足りないし、水穂や里沙子の周囲にはそういうことを言ってあげたり共感してくれる人が少ない。
日本は昔と違って両親と同居しなくなった。母乳のあげ方やオムツの交換など、育児の多くのことは見たこともましてや経験もしたことの無いことだらけなのだ。何もかもはじめてだから全部がうまくいくものでも無いし乳児と四六時中一緒にいたならば考え方に柔軟性がなくなるのも致し方ないことだ。これらの問題を社会的な問題として考えて変わらない限り、水穂や里沙子のような人の苦労は絶えないということだ。

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