楠木正成は倒幕の英雄だった!「千早赤阪紀行」前編
緊急事態宣言がやっと空けました!
と言っても、大手を振って出歩いて良いというわけではありませんが、今回の宣言解除は予定されていた事なので、レキジョークルでは今年の「紅葉企画」を来月に早々と組みました。
とにかく全員忙しいので、常に先手を打って予定を立てなければ定まらないのです。
今回の行先はなるべく混雑を避けるつもりで、琵琶湖の西側を紀行する予定です。じっくり調べてみると、意外にも紅葉名所はあるようで、今からとても楽しみです。
まだ先だと思っていた秋の紀行ですが、急に降って湧いた企画があります。
郷土史「あしたづ」で改めて見直す事になった楠木正成。
彼のゆかりの地・千早赤坂は、自宅からは1時間もかからない距離にあるので、ちょっと行ってみようと急遽、紀行計画が生まれました。
2日(土)に日付を設定して、その2週間前に全員に呼び掛けてみたのですが、ほとんどのメンバーは予定が立たず、結局、道中ナビ奉行・チコさん、食いもん奉行・ミコさん、企画奉行・千世でいく事になりました。
急な事にでも比較的対応可能な、フットワークの軽いいつもの3人です。
過去の「大阪城櫓公開」や「奈良・今井町」の紀行もこの3人でした
金剛山に続く山々に築かれた7つの城
今回の運転奉行はチコさんです。華麗なハンドルさばきで千早赤阪村の山道をグングン上っていくと、眩しいぐらい綺麗な棚田がありました。
素晴らしい快晴で、余計に稲穂が太陽の光に反射して輝いていて、思わず目を細めてしまうほどでした。
楠木正成は後醍醐天皇の忠臣で、千早城はその命により鎌倉幕府対抗の拠点として築城された城砦群のひとつが千早城です。
城砦郡と言われる所以は7つもの城砦が、ここ千早赤坂村~富田林市~河内長野市にかけてかつて存在していたからです。
https://goo.gl/maps/xixDj7PPygLD4PgW9
ハッキリ言って、大阪とはいえ超が付くほどの山奥です。
その証拠に、現在でも千早赤坂村は大阪府下で唯一の”村”なのです。
これを建てたのは鎌倉時代終盤の1330~1332年で、ざっと690年も前という気が遠くなるほどの過去で、何もない時代に7つもの山城を作るとはどうやったのでしょう!
千早城は日本100名城のひとつであり国の史跡に指定されている鎌倉時代末期~南北朝時代に築城された楠木正成の城です。
四方を山々の絶壁に囲まれた堅固な連郭式山城なのです。
標高1125mの金剛山の西側に位置し、周囲は約4km、千早川の渓谷などの天然の谷を利用し、それらが堀として四方を囲んでいます。
堅固で難攻不落の城なのです。
そういえば、私が小学生の頃、堺市に住んでいたのですが、必ず冬の耐寒訓練として「金剛登山」がありました。
この周辺の市の小学校は学校行事としての遠足なので、有無を言わさず強制です。
確か2月だったと思うので、当然ながら一番寒い真冬の中で、靴にはアイゼンを着けて凍った山肌を細心の注意を払いながら登ったのです。
頂上で昼食タイムになるのですが、とてもじゃないけど寒すぎて手の自由が利かずお箸を使う事が困難なので、皆、おにぎりか巻きずしを用意していました。
それを、悴んだ手で寒さに凍えながら食べた記憶があります。
登る過程で、結構な汗をかいてしまうので、なおさら寒くなる。
なので、あらかじめ汗取り用のタオルを背中に当てておいて、頂上に着いたら首元から抜くという対策もしていました。
しんどくて、苦しかったこの「金剛登山」ですが、頂上に着いた時の高揚感は今でも忘れられないものです。
目標達成のための努力と忍耐を養っていたのだと、今になってみればよくわかります。
それなのに、現在は完全に学校行事からは外されています。
ウチの息子たちも学校から一度も行ったことがありません。
危険だから?
ちゃんと指導できる先生がいないのか?
そもそも面倒だからか?
過保護の保護者がうるさいのか?
理由はわからないですが、とにかく普通の学校生活の中では”登山”は消えてしまったのです。
ウチの息子たちは個人的に家族や別のクラブ活動で体験していますが、きっと未体験の子供がほとんどではないでしょうか?
これは教育上、地味に由々しき問題かもしれません。
話が逸れましたが、そんな金剛山に連なる山に千早城はあるので、幾通りもある登山ルートのひとつには、この千早城址を通過するルートもあるのです。
千早城址までの険しさに心が折れる
そんな千早赤坂村の長閑で美しい青天の景色を堪能している間に、登山口駐車場に到着しました。
入り口の案内板を見つけて、笑顔になったものの、ちょっと視線を左にずらしてみて、唖然としてしまいたした。
写真では伝わりにくいかもしれませんが、かなりの急勾配です。
それに加えて、長年の風雪に晒されて石段に使われている各石が盛り上がっていてゴツゴツしていて、非常に足元が悪いのです。
どこの城でもそうですが、敵の侵入を防ぐため幅や高さが不規則で、その上、急勾配は変わらないのに、手すりがあるのは最初だけで、完全に自力で登るしかないのです。
這うような姿勢を取らないと、ちょっとバランスを崩すだけで、下へ真っ逆さまに転げ落ちそうな恐怖と戦いながら登るので、きっと素晴らしかったであろう周りの景色など、1ミリも眺めるゆとりはありませんでした。
普段テニスをしているチコさんはさすがに足取りは軽く、どんどん先頭を行きます。次いでミコさん。
当然ですが、年長者の上、毎日PCばかりしている私は一番後方の殿です。
2人は、登りながら喋るゆとりまであるのですが、私は息が切れて声を発する事もできない。
ジグザグの九十九折りになっているので、たまに見上げてもゴールは見えず、先の様子がまるでわからない。
「ちょっと…休…憩…して」とやっと声を振り絞って、そこらにある大きい石に腰掛け、水分補給タイムです。
つかの間の休憩を終えて再スタート後、すぐに先に行った2人が、
「もう終わりやでー!」と朗報が聞こえます。
ひとつコナーを曲がって見上げると、どうやら終点らしきところに二人の後ろ姿が見えます。
この瞬間がどんなに嬉しかった事か~!
驚くべきことに、こんなに苦しかったにもかかわらず、この間はたったの15~20分ほどだったのです。
いやー。もっと時間を費やしたように思えますが、苦しい時間はいかに長く感じるかをまさに体験しました。
千早城址の階段は全部で560段とのことですが、そのうち400段余りが幅も高さもマチマチの未整備の階段です。
事前にネット検索していたので、ある程度の覚悟はしていたのですが、マジでキツかった~~~!!
どや!登り切ったで!
そこは只広い平地になっていて、四の丸跡との事です。
画面右奥の建物と左には売店らしきものがあるのですが、完全に寂れきっていて、すでに朽ちかけています。
本丸跡が神社になっているらしいので、さらに進みます。
本丸、二の丸、三の丸、四の丸、出丸の5つの曲輪に分かれており、その間には空堀、堀切等が設けられていました。
↓ 現在は平坦な風情ある林道みたいですが、実はかつての堀切跡だと言われています。
達成感をかみしめるのも束の間で、また階段が見えた瞬間にテンションがやや下がります。
チコさんもミコさんも2人ともなんて元気なんでしょう。
スイスイ歩いていきます。
ここから先の階段は全然マシで、先ほどまでの鬼の悪路階段ではなく、上りやすくなっています。
しかし階段の幅は20cmあるかないかないかなの狭さで、踏み外さないよう注意は必要です。
特に下る時はさらに危険で、足元から目が離せませんでした。
ここが頂上です。
やっと楠木神社・本殿に到着です。
前回「あしたづ」の記事で書かせていただいた、「桜井の別れ」での楠木 正成・正行親子が祀られています。
中央に楠木家の家紋である「菊水」があります。
後醍醐天皇より感謝の気持ちを込めて菊の紋を下賜されたのですが、当の正成は天皇家の家紋を使うのは恐れ多い事だと思い、菊の花が川の流れにゆっくり身を任せているような様子にするため、水を描き足し、天皇家とは差別化するためアレンジして使うようになったとの事です。
清廉な動きのある美しい家紋ですね。
「家紋」のデザインに見る、日本人の美意識の高さにはいつも感心してしまいます。各家のワンポイントロゴを端的に具象化したこれらのセンスは、世界に誇れるのではないでしょうか。
様々な家紋デザインを見ているだけで楽しくなってくるのです。
鎌倉幕府倒幕の立役者・楠木正成
1333年、ここで起きた「千早城の戦い」は、日本史上もう一つの“倒幕”実現の前哨戦なのです。
後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒のクーデターに呼応した楠木正成が挑んだ、大きな戦いのひとつです。
幕府軍とその援軍合わせて100万人という大軍に対して楠木軍はわずか1000人足らずで応戦し、籠城して勝利します。なんと千倍もの敵を相手にしたのですね。
先に述べたように、千早城は天然の要害を利用した堅固な山城です。
簡単には落ちないというのは、実際に登ってみたら実感できます。足場の悪い急な斜面を攻めようとしたら、常に上から攻撃されてしまう。
この日の私たちのように足元にばかり気を取られていては、一巻の終わりです。
なぜ、この戦いが別名「100日戦争」と呼ばれるかは、その堅牢な造りを利用して、正成が奇計・奇策を実行して幕府軍を翻弄し、100日守り抜く事ができたからなのです。
その策の中の一つの、「わら人形作戦」がおもしろい。
等身大の人形に甲冑を着せて並べ、夜明けとともにときの声を上げ、幕府軍が襲ってきたところに、大量の大石を投げ落とすという作戦です。
そういえばこんな甲冑を着せた人形か所々にありました。
本当にこんなもので鎌倉幕府は引っかかったのか!?
にわかに信じがたいのですが、当時としては誰もした事のない作戦だったのかもしれません。
また、
包囲している鎌倉幕府側が近くの山から城壁へ橋を架けて攻めようとした時、楠木軍は火をつけた松明を何本も投げて積み上げ、水鉄砲で油を注ぐと、谷風にあおられて火は瞬く間に大きくなり、橋は途中から焼け落ち、数千人の幕府軍が猛火と共に落ちて焼死したと言います。
わずか千人の兵で幕府の大軍を翻弄して退けた正成の奮闘は諸国へと伝わり、地方の豪族たちも蜂起し、討幕の機運は一気に高まりを見せます。
幕府内部からも離反者が出る結果となり、混乱して手薄になっていた鎌倉は新田義貞に攻め入られ、「千早城の戦い」終結後からわずか12日目に鎌倉幕府は滅亡したのです。
あれ?これって、明治維新前の高杉晋作のようではありませんか?
高杉もまた、「奇兵隊」という庶民たちで構成された部隊を作り、徳川幕府の大軍を長州藩というたった一つの藩が破るという結果を残したのです。
幕府が疲弊した時には必ず、革命の火付け役となる何かしらの英雄が出現するものだと、つくづく感じてしまいます。そして、時代の変わり目を迎えるという流れです。
…という事は、徳川幕府にはこの教訓は生かされていなかったという事でしょうか。
結局、この時の楠木が高杉に取り替わっただけで、同じような事が起こっています。
楠木正成という武将はなんて面白いのでしょう!
まるで徳川幕府倒幕時の高杉晋作です!
下りはさすがに自分の足がガタついた
さて、下山しようという時、さすがに登ってきた「鬼の階段」では、おそらく転げ落ちてしまうので、もう一つのルートで降りる事にしました。
すでに、足は膝もふくらはぎも重く、確実に疲れは襲ってきています。
楠木神社の本殿からそのまま引き返して、すぐの右側に谷に沿って細いルートがありました。
地面は遥か下方ですが、日陰になっていて気持ちの良い階段のルートでした。
「もしかして、こっちで登った方が良かったか??」と私が言うと、
「これも登りはしんどいで」とすかさずチコさんから返答がありました。
なるほど振り返って見上げるとかなりの、急な登りの九十九折でした。
これが続くのも確かにキツイ。
しかし、下りだったせいか格段に楽に感じた事は間違いないのです。
さて、下に降り立った所に、手作り豆腐の店があります。
もちろん、食いもん奉行・ミコさんのおすすめの店です。
そりゃもう、企画の段階で、「ここに豆腐の美味しい店があるから!」と念を押していました。
私は、厚揚げ、絹ごし、ごま豆腐を買って食べたのですが、豆腐がしっかりしています。
そうかといって固いのではなく、なんか密度が細かいという感じです。
だからか、スーパーで買った絹ごしを冷奴にしたら、すぐに水分が抜けて水漬けになってしまいますが、ここのはまったく水が抜ける事なく、柔らかいのに歯ごたえもあり味の濃い豆腐で、とても美味しかったのです。
3人とも豆腐の入った袋をぶら下げて、次の目的地のランチの店まで行くつもりで、駐車場に向かっていると、
突然、私は足を取られて、手をついてコケてしまったのです!
今から思うと、どうして現場写真を撮らなかったのか後悔しています。
山道などは雪解け水を流すための排水路が道の端以外に、それと直角に道路の幅いっぱいの端から端までに排水路が切ってあって、上に鉄製のすのこ蓋がしてあるのですが、その蓋が少し短くて、端だけ蓋のない状態だったのです。
私は車を避けるために端を歩き、しかも周りの景色を眺めながらなので足元など全く気にしていなかったため、見事に右足がハマってしまったのです。
ハッキリ言ってこれは危ない。
一応は車道なので人は端を歩くのに、20cmほど足りていないのです。
ちょうど足のサイズぐらいだったので真直ぐに入ってしまったので、骨折も捻挫もせずに済みましたが、斜めに入っていたら大怪我していたかもしれません。
さすがに出っ張った「くるぶし」はズル剥けに擦り剥きましたが。。
傷だけで済んで本当に良かったです。
あとでミコさんには、「ケガよりも豆腐の心配してたやん。」と笑われました。
確かに、起き上がった瞬間に、「豆腐!」と言って、自分の足を確かめずに袋の中の豆腐を確かめたのを思い出しました。
これは主婦である大阪のおばちゃん根性なのでしょうか。
自分でもよくわからないのですが、瞬間的にせっかく買った豆腐を、一番に心配したのです。
その時に確かめなかったくるぶしの傷は、車に戻った時にミコさんから傷テープをもらってちゃんと手当しましたが、未だに痛みます。
ついでに膝も内出血していました。
ここまでで、まだ11時30分。
なんだかすでに、1日分の体力を使い果たしたのですが、次のランチの店はなかなの評判なので、ミコさんだけでなく、3人とも楽しみにしていました。
思った以上に大変だった千早城址への道程を頑張り抜き、午後にはもう一つの楠木正成ゆかりの地・観心寺への紀行もあります。
ゆったりと美味しいごちそうで、体力復旧に務めなければなりません。
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