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「一心寺」は我が家の第二の菩提寺

「一心寺」は国内最大の永代供養の寺

子供たちがすっかり成人した熟年夫婦にとって、二人揃って出かけるのは、寺か神社ぐらいかもしれないです。

大阪市天王寺区にある「一心寺」は我が家の第二の菩提寺です。
和歌山の田辺市に第一の菩提寺があるのですが、遠いのでここにすでに故人となった主人の両親の遺骨を分骨しているのです。

コロナ禍以前は、主人は毎月、私は少なくとも3ヶ月に一度はお参りに来ていましたが、緊急事態の間のしばらくは遠慮していました。

ちょうど緊急事態宣言も開けたし、10月は義母の命日月ということもあって、久しぶりに二人でお参りしたのです。

トップ写真のように、一心寺の長老で工学博士である高口恭行たかぐちやすゆき氏による、とてもモダンな山門と、彫刻家・神戸峰男かんべみねお氏の手による、青銅製の武器を持たない丸腰の一対の仁王様はいつ来てもインパクト大です。

立地はかなり交通量が多く、とてもザワついた場所にあり、25号線をはさんだ北側には真田幸村討死の地・「安居神社」があり(清水寺の下あたり)、そのまま東へ進むと大阪を代表する寺院のひとつ、「四天王寺」があります。

一心寺は、常に賑々にぎにぎしい雰囲気に囲まれ、本山格でもない一般の寺院としては、関西屈指の参拝客数を誇り、大阪市の無形民俗文化財にも指定されています。

今や遺骨の総数は200万柱にのぼり、国内最大の永代供養の寺院なのです。

誰でも拝める遺骨で造った阿弥陀様

一心寺は文治元年(1185)に浄土宗の法然上人により、近くの「四天王寺」の西門あたりに「源空庵げんくうあん」という名で創建されました。

1185年といえば、平安時代末期にあたり、「壇ノ浦だんのうらの戦い」で平家が滅亡した年ですので、830年以上も前になります。

この「一心寺」は、全国的に知名度が高いというわけではないのですが、ご先祖の遺骨で造った「骨仏」で有名なお寺なのです。

遺骨で仏像を作るなんて、なんというグロテスク!
しかも他人様の遺骨と混ぜて、こねて、形成し直すのです。

人によっては抵抗があるかもしれません。

そもそも始まりは、幕末から明治にかけて、家業を継げない全国の多くの次男以下の者たちが、地方から大阪に丁稚奉公に来てここで定住し始め、遠い故郷に祀られているご先祖様を、住処の大阪で供養したいと分骨した遺骨を持ち寄るようになりました。

ー「一心寺なら宗派を問わず供養してくれる」ー

と、庶民たちの間で評判となり、1868年から始まったこの分骨はたったの20年で、納骨堂はパンク状態になってしまいます。

すでに置き場もない様態だが、かといってご先祖の納骨を無下にお断りする事もはばかられる。

困った当時の住職が考えた苦肉の策が、人骨を粉砕し、鋳型で固めて阿弥陀如来像にしてお祀りすることでした。

こうすることで、大阪に拠点をもつ分家筋が、いつでもお参りでき、そのうえ永久的に時代を超えて大勢の参拝客が、手を合わせてくれるのです。

永代供養墓はどこの寺でもあるのですが、一心寺の骨仏はその元祖なのです。

主人の家もまさにそうなのです。曽祖父は和歌山の本家の長男でありながら、事情があって家を飛び出して関西を転々と居住していましたが、義父が急死した時にこちらに分骨する事でお付き合いが始まりました。

現在は10年ごとに1体を造立していて、当初あった納骨堂だけでは足らず、新しく隣に増築し、両方合わせて8体の骨仏が安置されています。

47年も前に若くして亡くなった義父と、13年年前に天寿を全うした義母とは、その差は34年もあり、同じお堂でも、同じ仏像にもなっていませんが、それぞれはちゃんと阿弥陀様に姿を変えて、家族だけでなく、多くの人々に手を合わせていただいています。







歴史の舞台であり名所となった寺

一心寺は境内を見回しただけで、歴史の痕跡を見ることが出来ます。

納骨堂近くにある「東軍戦死者招魂碑しょうこんひは、
戊辰戦争で没した徳川方の武士の冥福を祈るもので、明治31年(1898)、大阪に住む旧幕臣達によって建てられたそうです。

その碑文字は最後の将軍・慶喜よしのぶの直臣である槍術家の高橋泥舟でいしゅうの筆によるもので、とても力強く、その思いを今に伝えています。

高橋泥舟でいしゅう勝海舟かつかいしゅう山岡鉄舟やまおかてっしゅうらとともに、「幕末の三舟さんしゅうと言われて活躍した幕臣の一人として数えらているのです。


その碑から左に目を移すと、本多出雲守忠朝ほんだいずものかみただともの墓があります。

本多忠朝ほんだただとも? 誰??
徳川家四天王の一人といわれた本多忠勝なら知ってるけどこれは誰??

と、最初はそう思って調べてみました。
まさしく忠勝の第2子で、関ヶ原の合戦に武功をあげてそれなりに出世はしたのですが、16年後の大坂夏の陣では、なんと酒を飲み過ぎて討ち死にしてしまったというのです。

ビッグプロジェクトの当日に酒に酔って参加したとは、なかなかのいい度胸です。自業自得なので、名誉のある死にざまとも言えません。

しかし、この墓は、大酒によって身を誤める事を教訓にした「酒封じの神」として酒に苦しむ当人や家族の祈願対象になっているのです。

また、大阪の陣で徳川家康の本陣が、この一心寺に置かれて、大きな歴史の舞台となったところでもあります。

また、南に隣接している「天王寺公園」は、歴史的には「茶臼山ちゃうすやま」と言った方がいいのかもしれません。大阪夏の陣では、真田信繁(幸村)が陣を構えて、徳川を脅かすほどの猛攻を仕掛けます。

現在の一心寺の敷地は、秀吉の正室・高台院(おね)からの拝領によると記録にある事から、一心寺⇒徳川家⇒高台院という図式となり、
ここにも彼女と徳川家康の親密さが垣間見え、関ケ原~大坂の陣における裏ボスだったという裏付けの一つを見つけてしまいました。

大阪の陣後に、この辺りに残されたおびただしい数の無名の戦死者を哀れに思った当時の住職は、それらのご遺体を一カ所に集めて埋葬して供養したそうです。


一心寺東隣の「三千佛堂」は平成14年(2002)に建立された講堂で、中に入るとビックリするほどのたくさんの黄金に輝く仏様が天井までびっしりとおられます。



ちゃんと十二神将も配されているのですが、有名な新薬師寺のものに比べると、雰囲気はかなり違います。

中央の講堂のドーム型に沿うように祀られ、多数の金の仏像は圧巻の迫力があります。







家族の思い出の場

そういえば、今回のお参りで気づいたのですが、あれだけたくさんいた鳩がまったく姿がなくなってしまいました。

ウチの息子たちが小さい頃は境内にはたくさんの鳩がいて、日頃から食パンの耳を冷凍保存しておいて、家族で一心寺参りする時には鳩に餌としてそれをあげるのを楽しんでいました。

おそらくは、それがだダメだったのでしょうね。
フンなどの鳥害被害対策をとったのか、10年ほど前から減り始め、それでも本堂の屋根には数羽見かけたのですが、今ではすっかりいなくなりました。

鯉が泳ぐ池にも餌やり禁止の木札があります。

どこの寺院でもそうですが、やはり餌を与える事で水が汚れたり、文化財なども被害に遭うので、仕方のない事です。

しかし、我が家にとって、「一心寺」は家族でひと時を楽しんだ思い出の”憩いの場”でもあるのです。



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