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生きづらくない人へ

「生きづらい」という言葉が広く使われるようになったころから、どこかもやもやした感情を抱いていた。

周囲に馴染めない、人に合わせられない、感情のコントロールができない、人よりも感覚が鋭い。そうした特性を個人の責任にせず、サポートの必要な人として理解しようという動きは、社会の大きな進歩だと思う。けれど、本で、ネットで、テレビで、会話の中で、いたるところで多用される「生きづらい」という単語を耳にすると、小さな反発を抱く自分がいる。


「生きづらい」ってなんだろう?


たぶん、私は「生きやすい」人だ。
学校や職場ではそれなりにやってこれたし、感覚やメンタルの過敏さに苦しんだこともない。友人は多くはないが天涯孤独ではない。家庭環境も複雑ではない。だけど、今思えば「彼・彼女は“生きづらい”人だったんだな」と感じる人物に、悩んだ経験はある。

§

今朝、保育園に向かう途中、息子が突然「行きたくない」と言い始めた。

優しくたしなめても先生に声をかけられても頑なで、無理に行かせることはないかと帰宅してきた。理由はなんとなくわかっている。昨日の参観日だ。

参観日では、子どもたちが手作りの商店街で保護者を迎えてくれた。息子は人一倍はしゃぎ、飛び回って「いらっしゃいませ」と声を張り上げていた。そこで燃え尽きてしまったのか、その後の活動に参加できなくなった。みんなの輪に入らず、一人すみっこで先生をつかまえてふてくされている。参観日のみならず、そうしたことが頻繁にあると、以前から聞いていた。


たぶん、息子は「生きづらい」人だ。

彼にとっては、じっとしているより動き回っている方が「落ち着く」し、決められたことを決められた時間に行うことは、苦しいのだ。そうわかってからは、なるべく彼のペースや心情を尊重する声かけをしようと言葉を選んできた。
いつだったか、ひどく叱ったあとに後悔して

「ごめんね。Tもしんどいんだよね。もっとちゃんとしたいのに、わがままってわかっているのに、ちゃんとできなくて、しんどいよね。いいんだよ」

と言ったら、息子は突然、私の目をまっすぐに見た。そこに私が映っているのがわかるほど、大粒の涙が瞳にあふれた。それまで聞く耳をもたないくらい癇癪を起こしていたのに、「うん」「うん」と繰り返して。


「この子がわかってほしかった気持ちはそれだったのか」と腑に落ちると同時に、「生きづらさ」への複雑な感情が、ふわりと舞った。水の底に沈んでいた砂が、舞い上がるように。

「生きづらい」人のそばで、生きやすい人は寛容でなければならない。

生きやすい人が我慢して、生きやすい人が言葉を選んで。

私は「生きづらく」はないけれど、そんなにできた人間でもないよ。

「生きづらい」と聞くたびにきっと、「私だって」という言葉を、飲み込んでいたのだ。

§

生きづらい人がゆるされる社会がある。
それと同時に、生きづらくない人が頑張りすぎなくていい世界であればと願う。生きるのに、生きづらいも生きやすいもない。


保育園をお休みすることにした息子は、帰宅するとうきうきと工作を始めた。鼻歌なんて口ずさんで気楽なものである。

しばらく聞いているうちに気づいた。
それは、昨日息子が入れずにいた輪の中で歌われていた歌だった。


[一日一景]
___1日1コマ、目にとまった景色やもの、ことを記しておきます。

実家に帰ったときの息子の水彩。
固形絵の具を見つけて「やりたい!」と言う息子に、母が用意してくれた。私はすぐ「今日は時間がないからまた今度ね」なんて言ってしまう...。



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