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春野菜と散文レッスン

菜の花、ふきのとう、芽キャベツ、うすいえんどう。

生まれたばかりのやわい芽を、つぼむ花を喰む。

青さと苦みが混ざり合って、こそばゆいような感覚になる春野菜が好きだ。香りも風味もどこかソワソワしている。どっしりと土の気配を蓄えていた、冬の根菜とはまるで違う。とらえどころがなくて、あやうくて、時期を逃せばもう食べられない。みどりの芽やつぼみが青果売り場に並びはじめると、「今食べなければ」という使命感すら覚えて、次々とカゴに入れてしまう。

軽やかで青苦い、春野菜の料理は時間をかけないものが多い。
さまざまな料理本を見ても、味付けはシンプルで、火入れは最小限、素材の個性を生かして調理されている。クセの強い食材を前に、料理人ならば誰しも考えることは同じなのであろう。

けれど、同じに見える料理でも、作る人が違えば味や印象が違っているから、おもしろい。

菜の花とホタルイカの王道の組み合わせも、作る人が違うとみな違う。
もっと言えば、同じ材料で、同じ調味料で、同じレシピで作っても、料理する人が違えば、きっと違う。そうわかっているからこそ、料理人は料理教室で自身のノウハウを伝えるし、本でレシピを公開することもできる。作る人が違えば、違う料理になると知っている。


2月、仕事が少し空いたので、平日1日1エッセイの投稿を続けていた。

平日だけ、しかも途中祖母の逝去があり実質2週間ほどしか書けていないにもかかわらず、毎日というのはなかなかの筋トレだった。ネタとしてメモしていた事柄は3日ほどで尽きてしまい、書く作業だけでなく、日々の気づきや引っかかりを見逃さないことの大切さが身にしみた。

何か書こうとすると、「そのテーマについては、もう既に良い記事がある」という考えが邪魔をする。

自分が書く必要もない。誰にも求められていない。
同じ題材で、もっと深く考察したり叙情豊かに語る文章はたくさんある。
ふだんの私ならそう考えて、「公開」ボタンを押さぬままだっただろう。でも、毎日書くと公言してしまえばそうも言っていられない。ためらう時間がなかったから続けられた。

ずいぶん前、友人たちと食事していて、作りたい本の話になったとき、同じようなことを話した。「もう既に、素敵な本がたくさんある。自分がやらなくてもいいと思ってしまう」。すると、友人の一人がにっこり笑った。

「違う人が作れば、ちゃんと違うものになるよぉ」

そして、あなたが作るものが見たいと言ってくれた。この言葉は今もずっと心にある。同じ材料でも、王道の組み合わせでも、作る人が変われば料理は変わる。文章も、編集も、写真もファッションもうつわも何でも。


青くて未熟な、時間をかけて料理していない散文でした。
それでも、2月の更新をきっかけにフォローしてくださる方が30人以上も増え、うれしく思います。
毎日とはいかないまでも、週1くらいで続けられたらと思っています。
読んでくださった方々、ありがとうございました。


[一日一景]
___1日1コマ、目にとまった景色やもの、ことを記しておきます。

お昼ごはんに、菜の花とホタルイカのパスタ。うつわはフランスのブロカントで、ただただ古い絵付け皿に憧れて買ったミーハーな一枚。今ならもう少し余白のある絵柄が好みかなぁ。こういうものは、欲しいタイミングと、出合うタイミングと、お財布の余裕が合致しないと買う機会がない。
私の文章を読んでくださった方も、きっとタイミングが合ったということですね。ご縁に感謝です。




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