見出し画像

同調と協調

前回の記事の人間関係のスタンスを契約型と忖度型に分けるという思い付きが、思いのほか自分の中でヒットしたのでまた書いてみる。

契約型は個人差が大きいことを前提としている。
他者よりも自分に対して義理堅い人がこの型になりやすい。
忖度型は他者に対して義理堅い傾向がある。
同じ人間として、些細な違いなど義理人情の繋がりで何とかなると思っている。

だから契約型が集団を作るには、目的と義理の代わりにルールを必要とする。
忖度型の集団にも目的がある場合もあるが、はっきりとしたものがなくても、共通点が多い者同士で自然に集まっていることも多い。
彼らが纏まるのにルールは必要ないが、何となく共有しているマナーのようなものはある。
彼らが自らに厳しいルールを課していたとしたら、自分たちは団結しているという雰囲気づくりのためである場合が多い。
例えば義理人情が理由でそれを破ってしまった場合、温情をかけて許すと感動を呼び、さらに結束が高まるという効果がある。
逆に断罪しても、自分たちは尊い犠牲を払って任務を遂行しているという陶酔感が得られ、どちらにしてもメリットがある。

契約型の集団では、ルール破りを許すのはそのまま集団の崩壊に繋がることを意味しており、規定により集団から追い出されるか、罰が与えられる。
ただしその集団に何か特殊な目的がない限り、自ら脱退する選択肢があるので、ルール破りが横行する心配がない場合が多い。
契約型は集団より自分に義理立てしているので、違反するほど強い不満があるくらいなら抜けるほうを選ぶ。
もし抜けたくないほど目的が重要ならば、ルールの改変要求、つまり交渉権を使えばいい。
契約型の集団はその性質により、ルールの運用が厳格なため組織の硬直化が起こりやすい。
それを防ぐために交渉権があるので、個人的な理由でも大いに行使したほうがいい。
メンバー全員に影響があるルールまでは変えられなくとも、それなりに正当性があれば特例が認められる。
少なくとも、皆に示しがつかないという理由で却下されることはない。
メンバー全員に交渉権があるので、あいつだけズルいと言われることもない。
もしルールそのものを改善したほうがいいほどの正当性がある主張をしたならば、集団内での評価が上がる。
忖度型集団では交渉したこと自体で評価が下がる場合が多いが、そもそもルールの運用が緩いので、何となく許される立ち回りをするだけでよい。
交渉でこちら側が有利になるように持っていくことがそう簡単ではないように、要領よく立ち回ることも難易度が高いかもしれないが。

契約型のメンバーがそれぞれの権利を行使しすぎると、集団そのものが崩壊するリスクもあるが、元から結束しにくいのだから仕方がない。
崩壊のリスクを低くしたいのであれば、目的を出来るだけ普遍的なものにする手がある。
逆に忖度型は連帯しやすいので崩壊のリスクは低いが、それゆえの危機感のなさで自浄作用が働きにくく、思い切ったことをやらないとじわじわ先細りするリスクがある。
彼らが危機感を覚えるのは、明らかに集団が衰退していると感じたときか、同じ人間とは思えないほど(本人に悪気はなくても)場の空気を乱す人物が現れたときが多い。

このように2つの型にはかなりの違いがあるが、契約型集団には契約型人間が合っており、逆も同じということはない。
契約型は2種類に分けられる。
目的のためなら厳しい規律にも耐えるタイプと自由人タイプである。
後者は人と交流すること自体が目的の各種交流会や、意見交換会など、反社会的な行動をしなければokくらいの守るのが簡単なルールの場を好む。
規律でガチガチな契約型集団は大の苦手であり、自分の価値観と近く、緩い雰囲気の忖度型コミュニティの居心地が良くて混じっていることがある。
逆に周囲に気を遣いすぎて疲れている忖度型が、契約型集団だと気が楽でいられることもある。
本来は契約型だが、自分に自信がなく個性を認められたいと思っているときも、個性を尊重する雰囲気のある忖度型と付き合ったほうが、彼らの想定外の尖った部分を出さなければ好意的に受け止められる。
契約型相手だと個性はあって当たり前なので、それ自体が評価の対象にならないからだ。

契約型が忖度型に協調性がないと指摘されると、何故そう言われたのか分からないときがある。
契約型にとっての協調とは、相手の目的を理解し、それに協力していることを意味している。
忖度型は足並みを揃えるという意味で使っていることが多い。

契約型から見て忖度型の最大の特徴は、同調するというものである。
忖度型の中でも、同調しやすいタイプとそうではないタイプがある。
例えば悩み事を打ち明けたとき、一緒に悲しんでくれるのが前者であり、慰めたり励ましてくれるのが後者である。
後者は忖度型集団に序列がある場合、リーダーやNo2など上層部や中間管理に向いている。
後者の中には、少数ではあるが同調を作り出せる、いわゆるカリスマ性を持った人物がいる。

この同調するというのは、契約型にはとてもではないが出来ない芸当だ。
彼らにとって団結するとは、目的に対する共通理解、共通認識があって、皆が協力的だということだ。
忖度型にとっては、文字通り心を一つにして一丸となることだ。
その団結力は契約型とは比較にならない凄まじさだ。
これが高度成長期の大躍進の秘訣の一つかもしれない。
列強側は戦争中にこの力を目の当たりにしたため、そのことを計算に入れていた可能性があることが識者から指摘されている。

このパワーは昔の権力者も恐れたようで、自分たちに矛先が向かないように祭りなどのイベントで適度に発散させていた。
激しい祭りの勢いのまま大きな商家を襲ったこともあったようだが、祭り自体の機能を考えると頷ける話だ。
あとで被害に遭った商家に、時の為政者が自分たちの身代わりになった見返りとして、こっそりと便宜を図ったかもしれない。
そもそもそういう役割を期待して、普段から優遇していた可能性もある。

いわゆる賤民と呼ばれる職能民に差別感情を持たせることによって、矛先を逸らすことも行われていた。
彼らに特定の職種の独占権という特権を与えることを見返りに。
激しく差別されながらも、彼らはケガレているから近づいてはならないとすることによって、実質的な被害に遭いにくいように配慮されていた。

このケガレという概念は、日本の歴史上でさまざまなことに便利に使われていて、例えばかつて産の忌みと言われる風習があった。
これは出産直後の女性はケガレているとして、産まれた子と一緒にだいたい1週間くらいは隔離して、子の父親でもある夫すら近づけさせないという徹底したものだったが、出産直後の母体の休息・回復のため、感染症対策、母子の絆を育てる(愛着形成)など、いろいろな効果がある。
ほかにも、出産したばかりの女性と同居の家族は、しばらく同じ村の人から離れて食事するなど、コロナ禍を経た身としては明らかに感染症対策だろうと思うしきたりもある。
現代では出産後のダメージがなかなか抜けなくて苦しんでいる女性も多いが、昔の女性より軟弱になったというより、差別が薄まった代わりに出産後のケアが簡略化されたという事情もあると思う。
死のケガレもそういう目で見ると面白い。

このようにケガレという概念を空気のように人民に浸透させることによって、何故そうしているのか悟らせずにコントロールすることが可能なのだ。

こういった手法は、昔の人は迷信深かったからで片づけられるものではなく、現代でも全く古びていない。