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2. 想像力のはなし


前回「直線と曲線のはなし」の最後で、「カーブした会話/理解」とは"相手の立場を1度想像してからとるコミュニケーション"と仮定しました。


想像する、ということ。


すごく簡単に言えるし、色んな場面でよく聞くんじゃないでしょうか。例としてあげるのも恥ずかしいくらい有名ですが John Lennonの "Imagine" という曲もありますよね。


「想像する」は親しみやすく、ある意味ありふれた言葉かと思うのですが、実際に行動として想像することって普段どのくらいあるでしょうか?しばしば「想像する」と「考える」は一緒のニュアンスになってしまうことがありますが、ここでは別のものとしてお話ししていきます。

「考える」とは主に、ある事柄に対して深掘りしていくと言ったニュアンスがこの場合近いのかなと思うのですが、対して、「想像する」とは主に、そこにない存在や事象を自力で創造し考えてみると言ったニュアンスになります。

要は、既にあるものの情報を頼りに考えるのではなく、今は発生していない事象や状況、ありえないかもしれない事を自分の力だけで考え抜くのが「想像する」ということ。0を1にする力とも言えるかもしれません。もしくは、自分の考えが及ぶ範囲内=自分中心世界を打破しようとする働き、とも言えるかもしれません。


●想像力と創造力

互いの想像力で成り立つような状況とは、例えばどんなものがあるでしょうか。日常でいつも私が思うことを1つ例に挙げてみます。日本の駅、電車へ乗る前のプラットフォームを思い出してみてください。


次の電車を待つ人が、地面に標された車両のドアがぴったり来る場所できっちり列をなしている。規則正しく、きれいにみんな並んでいる。私たち日本人は几帳面で規範に従い、本当に素晴らしい性格だなと思います。

ただ大抵の場合、特に通勤時間や帰宅時間、多くの人がいるようなタイミングでは列があまりにも長くなってしまい、反対車線の乗り口まで人が溢れかえっているような状況に遭遇したことがある人は少なくないはずです。もちろん、東京では満員電車なんて珍しくないので、そもそも一つの電車に対する利用者が多いという根本的な原因はあります。ただ、その溢れかえるくらいの列のすぐ脇、つまり列のライン上ではないスペース、車両のドアとドアの間のスペースには人が全くいないという状況も、その列とほぼ同じ頻度で私は見かけます。駅の広さや構造によっては多少異なるとは思いますが、少なくとも、私の最寄駅では毎朝同じ状況を目にします。


反対車線の乗り口まで人が溢れかえっている。危ないなあ、といつも思います。そんななか、もう並べないくらいの列を目にしても尚、最後尾へ並び、列に続こうとする人も少なくありません。

すぐ横を見ればぽっかり空いた誰もいないスペースがあるのに、それ以上並んだらきっと危ないのに、そこまでして正しく列に並ぶ必要があるのだろうかと思ってしまう。


日本のように、ここまできっちりと利用者の導線が整えられた駅は海外にはないと聞きます。

私が一時期住んでいたカナダの駅もそうでした。地面には車両のドアがぴったり来る場所なんて標されていなかったし、もちろん電車を待つ人もみんなバラバラに待っていて、列なんかどこにもありませんでした。だけど、「私の方が先に並んでたのに!割り込みしないで!」なんて文句を言う人はいなかったし、並んだ順番のせいで喧嘩に発展するなんてことはなかった。少なくとも私が生活していた間では見たことはありません。


仮に、電車に乗ったらどうしても座りたい人、例えば怪我をしている人や妊婦、ご高齢の方や大量に荷物を持った人が同じようにバラバラと、どこに車両ドアが来るか分からない状態で電車を待っていて、待っていた場所がドアから割と遠い場所だったとします。

おそらく日本の感覚だと、ドアに近い場所で待っていた=座ることが出来る!だと思うので、待っていた場所がドアから遠かった時点で先に電車には乗り込めない、座れない。小さな挫折感を覚えるかもしれません。

ですが、海外では違います。周りで同じように電車を待っていた人は、座席を譲るべき人の認識のようなものがなぜかあって、たとえ自分が先に電車へ乗り込んだとしても座らない。そして、後からやっと電車に乗ることが出来た怪我をしている人・妊婦・ご高齢の方・大量に荷物を持った人へ座席を譲るのです。待っていた場所からドアへ向かって電車に乗るまでに時間がかかりそうな人がいたら、あえてドアのところで待ってくれるような人もいる。そんな状況とは知らずすぐにドアを閉めてしまう車掌がいたら、代わりに車掌に向かって大声を上げてくれる人もいる。

これこそ想像力と、その思いやりによって創造される他者との関係であると私は思います。


列にこれ以上並ぶと危ないのであれば、それに加担しないで、すぐ脇の空いたスペースで待てば良い。電車に乗り込む順番を気にする、もしくは周りから気にされると思うのであれば、列に並んだ人たちが乗り込んだあとに乗れば良い。

明らかに過剰な列の並びが、たとえきっちりきれいに並んでいたとしても、「早く、そして順番通りに電車に乗ること」といった自分の状況しか考えていない人々の結果のように見えてきてしまう。列に並ばない=周囲を気にしていないというわけではないはずで、お互いが相手を想像して行動すれば、本当は何も問題は起きないはずなのです。想像力が、問題解決の糸口を創造してくれるはずなのです。

利用者の導線がしっかり整えられた日本の駅構造は言うまでもなく素晴らしいし、それを変えたいというわけではありません。ただ、そんな「当たり前」な、予め与えられた環境に私たちは随分と身を委ねすぎていないだろうか、と時折、自問自答することがあります。


●常識とバランス

便利で、なるべく問題が起こらないように、安心して生活できるように、そしてみんなが「同じ認識」を持って行動できるために設定された、私たちの周りに「当たり前」に存在する社会や環境、そして意識。

私たちのなかに「常識」として存在するその見えない「当たり前」は、多くの場合に物事を判断する際の「基準」となっています。ですが、この基準を誰が作ったか?と問われて誰か思いつくでしょうか。

社会がつくった、歴史がつくった、などの答えがあがってきそうですが、社会も歴史も表面的には分かっても細かな実態は見えないもの。生まれてから今日まで、まるで空気のなかに溶け込んでいるかのように在るその「基準」の生みの親が誰なのか正確には分かりません。と考えると、それは本当に自身にとって正解なのか。信用できるものなのか。そして、その基準を信用できると思う「あなたの基準」は何でしょうか。


確かに、そういった世の中の「基準」に則っていれば大抵の場合、私たちはすごく楽に、不安を抱かずに社会に溶け込み生活できるのかもしれません。考えずとも、それが正しい道とされているから、従うことで私たちは安心できるのです。

でもそこに、私たち一人一人の細かな意思や感情、ましてやその時の状況なんて反映されていない。私たち一人一人は、みんなが個々に違うユニークな別の人間で、みんなが違う状況であるはずなのに、同じものとして判断されている。言い換えると、その「基準」にちょっとした不便や不利、違和感、疑問を感じる人は、なぜか異端児のように扱われてしまうのが世の常です。

「常識」が不要だというわけではありません。多くの人々が共に生活していくうえでベストな環境を維持するには必要不可欠な観点であることには間違いないでしょう。

でも絶対的な効力は持っていない。確率的に広い範囲で正当性があるだけで、残りの何割かには当てはまらないこともある。だから、その常識から成り立つ「当たり前」や一人一人の「基準」も100%正しいとは言い切れないのではないか、と私は思うのです。


そして、もしその常識に対して違和感を持った人々の考えがよりピュアで、道理に適って信用に足り、随分と納得のいくものだったとしたらどうでしょうか。そういった人々の意見を取り入れなかった場合の「常識」はそのうち古いものとなり、廃れていくこともある。

何事においてもアップデートはきっと必要で、「当たり前」な風潮、一人一人が持つ「基準」に対して自問自答し、その時々でそれが本当に信用足るものなのかを見つめる必要があると私は思うのです。その時々で、自分の「基準」に対してチューニングをし、バランスをとっていく。

「当たり前を疑え」とか「常識を超えろ」とか、最近は特によく聞くようになったなあと思うので、「当たり前」や「基準」に自問自答しアップデートしていくなんて言っても、もしかするとあまり新鮮味は感じないかもしれません。

ですが、真にこれを達成できている人はどのくらいいるでしょう。もし、みんながアップデート出来ていたとしたら、常識や当たり前な基準から少し外れた人を異端児のように扱ってしまう流れが本当はなくなるはずなんですが、実際にはまだ社会にマイノリティとされる人々がいて、批難されたり、差別されたりしている。


何故か。

多くの原因は、マイノリティ側の人々について持ち合わせている情報が少ないからじゃないかと私は思っています。知らないから、分からないから、それまでに築いていた自分の中の「基準」を通して考え、それが合っていないことに気づかず間違った判断をしてしまうのではないか、と。だから、自分にない考え方や視点を知ろうとする柔軟な心持ちと、やはり相手の立場に立って考えてみるだけの想像力が必要なんだろうと私は思うのです。


●「デフォルト設定の世界」を打破する

2005年、アメリカのStanford大学で Steve Jobs が卒業スピーチをしていた傍ら、Kenyon大学にて卒業スピーチをした David Foster Wallace というアメリカの作家がいました。

特に日本ではAppleの創始者の一人である Steve Jobs の方が間違いなく有名かとは思いますが、このDavid Foster Wallaceが行った卒業スピーチは知る人ぞ知るという感じのようで、2010年のTIME誌では学外者スピーチのBest1に選ばれたほどの、実はとても有名で感慨深いお話です。



「これは水です」という題で、題名だけ聞くと何の話?と全く内容の見当がつかないのですが、「考える方法を学ぶことが人生にとってどれほど重要か」を、平明かつしなやかな言葉で語った名スピーチとされています。

David Foster Wallace はスピーチ中しばしば「デフォルト設定の世界」という言い方をするのですが、これが何かというと、先天的な自己中心的な世界=生まれた時からそう信じるようにプログラムされている「自分」が中心にある世界、自分が絶対的中心に存在する状況を「デフォルト設定の世界」としています。

これだけ明らかな自己中心的な言葉を並べられると嫌気が差すような気になりますし、自分はそんな自己中心的に思ってないよ!と言いたくなるのですが、悲しいかな、我々のほとんどは実際のところそうで、自分が絶対的中心に存在しなかった経験というものがありますか?考えてみてください、と彼は問います。

あなたの生きる世界は、あなたの前・後ろ・右・左にあり、あなたのテレビを見て、あなたのスクリーンを眺めている。他人の気持ちや考えは、何らかの形であなたに伝わる必要があるが、自分のものは即刻で緊急で、リアルだ、と。

"...but if you've really learned how to think, how to pay attention, then you will know you have other options."
ー どのように考えるか、どのように注意を払うかを学ぶと、他の選択肢を得られる。


David Foster Wallace はこの卒業スピーチで、先天的な自己中心的なデフォルト設定を如何に抜け出すか?という問いを投げかけて話を続けます。

唯一無二の真実とは、「どう物事を見るかは自分で選択が出来る」ということであり、それこそが私たちが受けた教育が生み出す自由の意味で、「適応力がある」という表現の意味である。何に意味があって、何に意味がないのかを、自分で意識的に決められること。何を信じるかを自分で決められることだ、と。


1人1人の頭の中にある頭蓋骨サイズの自由の王国。こういった自由は確かに大事ですが自由の定義は他にもあり、その中でも特に大事な自由が、まわりに注意を払い、意識的にものを見つめ、自制心を持つことで得られる自由。誰にも見えないところで、毎日毎日、自分以外の人々のことを思い、彼らのために犠牲を払い生きる自由。

そして、それこそが本当の自由で、それこそが本当に教育を受けるということ、それこそが自分の頭で考えるということだと、彼はスピーチの最後に熱く語るのです。

「デフォルト設定の世界」というのは、先に述べたような当たり前に存在している常識や基準に対して何も疑わず従うこと、という風にも言い換えられる気がしています。与えられた「当たり前」によって成り立つ自分中心世界、「当たり前」をそのまま実行しているから間違っていないと、ある意味、自分自身では考えずに身を委ねる方法。すなわち、それ以外の "可能性" をも否定することになるのではないか、と。

"The thing is, there are totally different ways to think about these situations."
ー 重要なのは、全く異なった考え方が存在するということ。

何故、自分中心世界を打破し、想像力をもって "何か" との関係性を創造することが大切であるのか。それはまだ見ぬ「可能性」が生まれ得る可能性があるからだと私は思っています。


David Foster Wallace のこの卒業スピーチの題名である「これは水です」は、ある2匹の若いサカナと年上のサカナによる会話から引用されています。2匹の若いサカナが年上のサカナとすれ違い、年上のサカナは挨拶がてらこう言います。
「おはよう、今日の水はどうだい?」
2匹の若いサカナはその瞬間、特に気にも留めなかったのですが、しばらく経ってから顔を見合わせて言います。
「てか、水って何?」

David Foster Wallace は、この可愛らしいサカナたちの会話を例として、「一つの体験が、2人の人間によって全く異なる意味を持ち、それは2人が同じ体験に対して、全く違った信念や観点から意味を抽出している」と説明します。

年上のサカナは水という存在を知っていて、若い2匹のサカナは知らなかった。ただそれだけのことなんですが、重要なのは、水という未知の存在があるらしいということを知った2匹のサカナが、その後どのような行動を取るのか、ということ。

そのまま水という存在を具体的には知らないまま泳いでいくのか。それとも、水という存在を学び、理解し、認めたうえで泳いでいくのか。すなわち、前者は「デフォルト設定の世界」のまま、後者は「デフォルト設定を打破した世界」です。


そして、後者を選択したサカナはどれほどワクワクするのか、水という存在を学び理解してどんな可能性を見出すのか。その若いサカナにとって、水の存在を教えてくれ、それまで全く考えもしなかった視点へと導いてくれた年上のサカナはまるで師匠のようで、尊敬する気持ちでいっぱいになったことでしょう。

新しい視点を手にした若いサカナは、自分と水との関係性を創造し寄り添うことで、それからの泳ぎ方が変わり、海の中で生活するということに柔軟な意義を見出すことが出来るかもしれない。ひょっとしたら身体的な進化を成し遂げることも出来るかもしれない。

百聞は一見に如かず、蒔かぬ種は生えぬ。

実際にやってみないと分からないことは、すごくたくさんある。物心ついて間もない子どもが初めて体験する物事への興味や吸収力はすごいとよく言いますが、大人だってまだその力は持っているはず。何か新しい物事を知って寄り添うことで、それまでの自分には無かった何かに気付き、新しい自分を発見できるかもしれない。自分には関係ないと思っていたことに勇気づけられることだってあるかもしれない。

自分自身を100%理解できている人はいないのに、自分以外のものが自分には全く関係のないことだと何故言い切れるのでしょうか。人や物事を無視することは、自分自身の可能性も無視していることになるのではないか。だから「デフォルト設定の世界」を打破し、新しい視点を通すことで豊かな価値観が生まれると私は思っています。


●「人間中心世界」を打破する

David Foster Wallace の卒業スピーチであげられた「デフォルト設定の世界」は、人間における話でした。あくまで、私たち一人一人の脳内に存在する自分中心世界であり、人間によって成り立つ人間世界における話。では、"人間" と "それ以外" に焦点を変えるとしたらどうでしょうか。例えば、人間と自然生物。人間と地球。


誰もが1度は見たことがあるだろう、宮崎駿監督映画『風の谷のナウシカ』。この作品における主人公ナウシカと、作中に登場する様々な虫たち、そして王蟲との関係性。1984年にこの映画が公開された時のキャッチコピーは「少女の愛が奇跡を呼んだ」でした。

ナウシカ
出典: https://twitter.com/kinro_ntv/status/1081190492849594369


戦争によって巨大産業文明は崩壊、跡地は有毒の瘴気を発する菌類の森「腐海」に覆われ、放たれる猛毒とそこに棲む巨大な虫たちに多くの人々が脅かされ抗うなか、ナウシカだけは腐海と虫たちに興味を抱き、心を通わせ、独自に研究をしていました。

ある時、メーヴェに乗りある少年を救い出そうとしているなか、騒ぎ始めた蟲の体当たりを受け体勢を崩したナウシカは、少年と共に腐海の奥底へ落ちてしまうのですが、これまで踏み入れられなかった腐海の底にはなんと、清浄な空間が広がっており、腐海は毒素に満ちた大地を浄化するために存在しているという確信を抱きます。そして腐海やそこに生息する虫たちは決して有害な物ではなく、環境の再生という点で人間と同じ目標へ向かっているのだと気付いたナウシカは、それまで以上に虫や王蟲へ心を通わせ、人間が彼ら(虫や王蟲)の世界に危害を加えてはいけないと人々に必死に唱える。

クライマックスでは、王蟲たちがナウシカのその優しい心を理解したかのように触手を伸ばし、ナウシカを受け止めるシーンが描かれ、人間の活動に対する王蟲たちの怒りは鎮まり、その後は人間同士の抗争も終息。そして人々は環境の再生へ着手し、ゆっくりと平穏な生活へ戻っていく様子で映画は終わります。


人間たちにとって腐海や虫たちが有害であったことには変わらず、それによって生活が脅かされていたのは間違いないでしょう。そして虫だなんて、理解しあえるわけがないと思ってしまうのは当然だとも思います。でも、腐海を発生させたそもそもの原因は人間による戦争と産業文明でした。腐海と、虫たちと、それによる弊害は自らが誘発したと言っても過言ではない。正しく「人間中心世界」による産物だったのです。


一方ナウシカは、有害に見えるものが本当は人間と同じ目標に向かっていて、むしろ手助けをしてくれているのかもしれないと気づきました。人間にとっては有害なものが、彼らにとっては無害かもしれず、むしろ必要な物なのではないかと。彼らなりのやり方を尊重し、妨害しないように働きかける。人間だけではなく、自然生物にも寄り添った考え方。これが「人間中心を打破した世界」と言えるのではないでしょうか。


もう少し、現実的な事例。


事実、インドではガンジス川に人と同じような権利があり、エクアドルでは山に、ニュージーランドでは木に権利があるそうで、地球上のその国々において、人間と自然は "共存" しているのだと証明しているような事例です。

権利が与えられているというのは、具体的に言うと例えば、個人または企業などが川・山・木に大きな損害を与えたと見做された際、川・山・木は加害者を訴えることが出来るということ。無論その権利を与えるという行為自体も、訴えるべきかそうでないかも人間の判断によることなのですが、それぞれの自然における本来の在り方と価値に敬意を払い、権利を与えることで守っている。人間が、人間による人間中心の活動によって自然や地球を汚してしまわないために権利を与えている。


人間とは、感情があり、考え、想像することの出来る唯一の生物とされています。少なくとも他の生物よりは賢いのかもしれません。だからといって、地球上のトップに立って下を見くだすべきではない。


人間だから川・海を汚したり、木を大量に切ったり、海や山に棲む生物・動物に危害を加え脅かしたり、必要以上に殺したりしてはいけない。人間からすると到底分かり得ない世界だから、意思疎通が出来ないからといって、何でもして良いわけではない。人間以外の生物や自然を無視して、完全な人間世界にしてはいけないのではないか。


そして知らないなら知る努力をする、意思疎通や存在を認識できないのなら想像する努力をするべきなのではないかと、私は思うのです。

過去、ロンドン市内における大気をクライアントとして訴訟を起こし勝訴した弁護士がいたように、人間には相手がたとえ自然であっても、相手の立場を考え、想像し、寄り添って共存できるはずで、他の生物より人間が賢いとするのであれば尚更、互いに敬意を払い、想像力で良い関係性を創造していくべきなのかもしれない。

「人間中心を打破した世界」。

それが本来の地球の在り方、人間とその他との関係性であるのではないかと思うのです。



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「デフォルト設定の世界」や「人間中心世界」に捉われて簡単に物事を判断してしまうのは、とても勿体ない。簡単に物事を判断して自分には関係ないと距離を置いたり、批判してしまうのは時期尚早で、もしかしたら驚くべき可能性が隠れているかもしれない。ちゃんと見て、聞いて、理解することでやっと分かることもあるはずで、それまでの自分にはなかった視点や新しい考え方を教えてくれる色んな人や物事に敬意を払うべきなのです。

そして、それが私なりの、そしてCHIRUDAなりの「デフォルト設定を打破した世界」「人間中心世界を打破した世界」であると思っています。



次は、アートのおはなし。


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