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1. 直線と曲線のはなし


みなさん、はじめまして。
CHIRUDA発起人のHarukoと申します。

突然ですが、
CHIRUDAというネームとロゴデザインは「〜:tilde(チルダ)」に由来しています。


チルダは、ダイアクリティカルマーク(発音区別符号)の一種で、他に波線符号ともいい、鼻音に関する音をあらわすもの。元々、字母の上に N を小さく書いたことから生じた記号だそうです。正直、このチルダそのものの発祥起源や意味などはそれほど意識していません。ただ、その曲線が成す形状、要はカーブを大々的に利用したかっただけなんです。


なぜ曲線=カーブなのか。なぜCHIRUDAはこの時代に活動しようとしているのか。
このCHIRUDAを通して大切にしたい勝手な思想と哲学をどこかでお伝えしたいと思い、長すぎる文章を書いてみている次第です。しかも地味に3部構成。宜しければどうかお付き合いください。


1、直線と曲線のはなし


私たちの世界に「直線(または直線的なもの)」と「曲線(または曲線的なもの)」がどのくらいの割合で存在しているのか?そして、それらはどのように作用しているのか?考えてみました。

●文字と記号

まずはやっぱり「〜」そのもの、少し視覚的に捉えやすい文字と記号について。


テクノロジーが進化して、もう珍しくも何でもなくなったタイピング。そのタイピングによって生成されるモニター上の文字。
誰が入力しても一定レベルでその品質が担保され、美しく読みやすく文章を表すためにシステム化された文字には多くの人がお世話になっていると思います。ですが、この確約された安定感とシステム化ゆえに、人間味さえも削ぎ落とされてしまい、文面によっては本人が想定していないほど冷たい文章になってしまっていることがあったり、その文面を読む側も必要以上に警戒してしまったり、という経験が少なからずあるんじゃないでしょうか。

その必要以上に与えてしまう冷酷感を少しでも無くすため、出来るだけ楽観的な印象に収めようとする時に便利なのが記号だったりします。(もちろん絵文字とかには敵いませんが)

例えば、語尾を伸ばしたい時に使う「ー」や「〜」。
・帰りに牛乳買ってきてー
・帰りに牛乳買ってきて〜
この直線か曲線かの違いで、牛乳を買ってきて欲しいという依頼者側の立場が微妙に変わってくるとは思いませんか。

もう少し詳細に言うと、
「ー」の方は、最後が直線であるというだけでどこか、上から目線のように感じます。
対して「〜」の方は、少なからずポップな印象が生まれてしまうとはいえ、どことなく依頼してしまっていることについて少しは申し訳なく思っているようで、「〜」の後に「ごめん」と付いてきても不思議ではないように感じます。「ー」に比べると依頼主の立場は相手に対して対等か、下にもなり得ることも承知しているかのような気配も感じ取れます。

「ー」が「〜」になるだけで、文面に柔らかさが生まれているようです。


●クロッシング

今度は、人間の行動に置き換えてみます。

ここである建築の話を無理やり持ってきちゃうのですが、2010年2月にスイス連邦工科大学ローザンヌ校のキャンパス内に建設された学習施設で、Rolex Learning Centerという建物があります。

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出典:https://www.dezeen.com/2010/02/17/rolex-learning-center-by-sanaa/


建物全体としてはもちろん、内側の空間設計まで緻密に考えられており、水平面が少なく波のように流れるようなデザイン、緩やかな丘や蛇行した階段など、たくさんの曲線=カーブを意識してデザインされているのが特徴的な建物です。この Rolex Learning Center を設計したのが、SANNAという日本の建築家ユニットで、金沢21世紀美術館を設計した業績も有名です。

Rolex Learning Centerの設計に関してインタビューに応じたSANNAは、このように述べています。

最初にデザインコンペを受ける際、担当者から生徒だけでなく、一般の方にもオープンに利用してもらえるような、万人に広く活用されるためのスペースでありたいと説明を受けました。そこから、どんな人でもコミュニケーションを取るチャンスが生まれる、公園のようなイメージが浮かびました。自分が滞在する場所を選んだり、仕事をしたり、語り合ったりということが、積極的に誘発されるような場所というものを考えました。

人間の動きっていうのはまっすぐ行かない。電車とかはまっすぐ行くけど、人間は普通カーブして歩く。もっと有機的な動きというものが起きる。まっすぐだとクロスロードしか作れないけど、カーブすることでより多様な関係が生まれる。
人間の動きから建築の形は出来てくるし、しかし、建築っていうものが人間に影響も与えるし。お互いにダイナミックな関係を持つといいなと思っているんですね。
(一部意訳)

引用:https://youtu.be/4O0OqdIoOPQ


このインタビューそのもの、そしてこの建築における想起源やコンセプトに私はとても感銘を受けました。


私は建築家ではありませんので、こんな素敵な建物を作ろうとも思っていませんし、作れません。だけどそんな、人々の優しさと思いやりが溢れながら、オープンで自由な"空間"だったら、もしかしたら私にも作れるんじゃないかと思っています。

「まっすぐだとクロスロードしか作れないけど、カーブすることでより多様な関係が生まれる。」
この一文が私はとても好きです。

「まっすぐ歩いてください」と言われて、まっすぐなラインが地面に描かれていたならまだしも、正確にまっすぐ歩くのって意外とすごく難しいんですよね。目をつぶって歩けば尚更。


あと、交差点。ありきたりな例ですが、渋谷のスクランブル交差点をイメージしてみてください。自分が実際にスクランブルを渡る様子でも、たくさんの人が行き交いするのを俯瞰から見た様子のイメージでもいいです。みんな、それぞれ自分の行きたい方向へ向かってまっすぐ歩こうとするんですけど、みんながまっすぐ歩けば必ず、というかおそらく渋谷スクランブルであれば歩き出し5秒後には必ず誰かにぶつかります。
必ずぶつかると気づいた時、あなたはどうしますか?避けますよね。避けて、他の通行人にぶつからないように歩いているはず。目的へ対してはまっすぐなんだけど、実はカーブしながら向かってるんです。

当たり前じゃんと思うかもしれませんが、SANNAの言う人間特有の「もっと有機的な動き」というのは、こうゆうことでもあるんじゃないかな、と私は思っています。ぶつからないようにという意思や気持ち、ある種の他人への思いやりと血の通った人体が、カーブさせるんです。もし同じ状況で、全く避けようとせずに、ぶつかってくる気満々で堂々とまっすぐ迫ってくる人がいたとすれば、なんて嫌なヤツ!と、きっとあなたは思うでしょう。


●会話と理解

最後に、同じく人間の行動ですが、目には見えないもの。
会話と理解、そしてカーブと聞いてあなたは何をイメージしますか?

ここでも、まっすぐ/カーブ という比較をしてみます。
まずは会話。

「まっすぐな会話」とは、きっとイメージしやすいとは思うのですが、そのまま相手に伝わること、と仮定しましょう。おそらく私たちが通常、何の気なしに行っていることです。こうゆうイメージ。いや、図にするまでもないのか?

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対して、「カーブした会話」とは。
それは、相手の立場を1度想像したうえで伝えること、と仮定します。

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そのまま伝える「まっすぐな会話」、そこには自分の意思や思考しか存在していません。
対して、1度想像してから伝える「カーブした会話」、ここには自分ともう一つ何かの存在を認めているようなニュアンスでしょうか。


次に理解。
「まっすぐな理解」を例えば、相手の発言をそのまま聞いて、自分にある本来の思考回路だけで理解することと仮定した時、極端に言うと相手の発言をそのまま鵜呑みにするようなニュアンスです。仮に相手の発言が予想外であったり、なぜそんなこと言うの?みたいな、どちらかというとただ理解できない状態もあるんじゃないでしょうか。
対して「カーブした理解」は自分にある本来の思考回路から少し外れた考え方で理解に努めることと仮定した時、たとえ相手の発言がその場では理解に苦しむような、少し並外れた発言であったとしても、本来の思考回路以外で理解しようと努めるので、相手の立場を想像して1度考えて見たり、なぜ相手がそのような発言をしてしまったのか?と落ち着いて考える時間もあったりするかもしれません。


会話と理解で、発信者が自分か相手なのかの違いはありますが、いずれにおいてもカーブした方法は相手を少し敬うような形に取れるかと思います。


もちろん、他人の脳にアクセスして相手が何を考えているかを正確に知ることが出来る人はいないと思います。そうゆう意味でも、私たちはみんな「自分」という世界にしか存在しておらず、「自分」の意思や気持ちに忠実です。そして、相手の立場を1度想像してみたとしても、その想像出来た内容が100%正解とは限らないんですが、


例えば、
あなたの部下が仕事でそれなりに大きなミスをしてしまったとします。そのミスによりあなたの手間も結果的に増えてしまった。あなたは今、実はまあまあなブチギレ具合だとしましょう。

文字通りダイレクトである「まっすぐな会話/理解」では、自分の意思や気持ちに忠実なので、部下がミスしてしまった状況において怒り心頭で、出来るだけ抑えたとしても、そういった態度や言葉や表情でおそらく部下を叱責してしまい、そして"ミスしてしまった部下"という印象そのままが、あなたにとっての部下の認識に繋がってしまうでしょう。


では、1度想像するという過程を踏む「カーブした会話/理解」の場合はどうなるでしょうか。


おそらく、ミスをしてしまったという状態において部下は、
・なぜミスに繋がったのか?ミスを起こした自分の状況はどんな感じだっただろう、集中出来てなかった?
・これからフォローアップするにはどうしたら良いか。今から出来る最善策は何だろう?
・自分のせいですごい迷惑かけてる!やばい、どうしよう、
・っていうか、〇〇さん絶対怒ってるし、この後めっちゃ怒られるよね。怖い、、
という具合に内心思っているんじゃないかな、と思うんですね。
そして、この部下の心情やそれまでの状況を一度想像するか、しないかで、一言に「叱る」とはいえ、「まっすぐな会話/理解」の場合とは大きく違った対応が取れるのではないかと思うのです。

もっと言うと、相手の立場を1度想像する=自分だったらどう叱って欲しいか?本当は何を分かっていて欲しいか?が、たとえ憶測だとしても何かしら分かるんじゃないでしょうか。挫けそうだったかもしれない部下を、反省させつつも、もう1度頑張ろうという気持ちに少しは近づけてあげられるかもしれません。


さらにもっと長い目で見ると、「まっすぐな会話/理解」での対応に比べ、「カーブした会話/理解」では自分の思考回路からも少し外れた過程を踏むので、ミスをしてしまった部下だけでなく、自分が力不足だったかもしれないといった観点もひょっとしたら見えてくるかもしれません。その場合は、ただ部下を叱るだけではなく、自分も力不足だったことを認め、謝りながらも互いにどうフォローアップしていくか、といった建設的な対応が取れるんじゃないでしょうか。客観視に近いニュアンスかなと思うのですが、ある意味新しい視点を通して考えるため、思考に可能性が広がり、相手に少し寄り添うような対応が結果的にお互いの信頼に繋がったり、その後の関係性にもポジティブに影響してくる気がするのです。


ただ、ここで絶対間違えて欲しくないのですが、「カーブした会話/理解」=自分の考えや気持ちを無いものとして対応する、という風に言っているわけではありません。あくまで自分の考えや気持ちは据置きで、どのように相手を捉えコミュニケーションをとるか、ということです。
「まっすぐな会話/理解」はただの一方通行が行ったり来たりするようなコミュニケーションで、「カーブした会話/理解」はある点においては互いに対等であるような意識の下で成り立つコミュニケーションである、と私はイメージしています。


もちろん、どのパターンにおいても絶対にカーブを意識するべきだとは言いません。時にはストレートな表現が必要な場合だってもちろんあると思います。そして、ここまで長々と説明させていただいた私でさえも、全部を完璧にこなせているという自信はもちろんありません。むしろ、いかにもな感じで説明しておきながら出来ていないなーと思っているのが正直なところだったりします。


たぶん、この3パターンを全て、毎日、毎時間、毎秒において意識しながらやるって相当疲れると思います。でも、出来る時に出来る人が少しずつでも増えたら、世界はもっと優しいものになるんじゃないかなと思うんです。


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3つの「カーブしたコミュニケーション」は、方法やオケージョンが違うとはいえ全てが、自分中心の世界ではなく、相手を同じ人間として認め敬おうとする気持ちによって成り立つものだと思っています。そしてそれは相手が人間でなくとも、自分という人間以外の何か、例えば動物や植物、環境、地球、、、そういった自分とは異なる何かに対しても成り立つし、そういったものへの寄り添い方として繋がっていく。自分中心か、そうでないか。人間中心か、そうでないか。考える視点を変え、柔軟な心と頭を持つことで、何か解決することがあるはずだ、と私は思いたい。


一人でも多くの人が柔軟な考えを持てるための学び場、優しいカーブが生まれるコミュニティの場でありたいという願いを込めて、CHIRUDAは誕生しました。


次は、想像力のおはなし。


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