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3. アートのはなし

これまで1、2と、かなり思想に近いお話を本当に長々としてしまいましたが、

ここでは芸術に関して少しだけ触れようと思います。急だな!と思う方ももしかしたらいらっしゃるかもしれませんが、CHIRUDAはアートを通した学びの場を目指したプロジェクトです。

さて、なぜアートを用いる必要があるのでしょうか?
アートの持つ力とは、一体何なのか。



まず、CHIRUDAがなぜアートを通した学び場を作りたいのか、単刀直入に言うと、社会やこの地球上に存在している色々な問題について、それらを解決するためにもより多くの人々に「自分ごと」として知ってもらいたいと思ったから。


●情報過多?情報過疎?

1990年代にIT革命が起きたことで多くの人がインターネットを利用できるようになり、さらに2000年代後半にはiPhoneが登場したことなどで、あらゆる情報へ瞬時にアクセスできるようになり、一般の人も簡単に情報を発信して楽しむ時代になりました。高度情報化社会と言われています。
今ここでもインターネットの恩恵を受けることでこの長い文章を読んでくれている人がいて、逆に言うとインターネットが無ければ私個人の小さい存在による情報発信すら届けることが難しい時代なんですが、考えたいのは、インターネットがあって情報を発信さえすればあらゆる人々に本当に届くのかどうか?ということ。


2015年に国連がSDGsとして世界共通の達成目標を決定してから、SDGsそのものやサステナブルといった言葉を聞くことが、ここ最近は特に増えたような気がしているし、BLMや#MeToo運動なんかも、私にとっては最近のすごく大きな出来事であったなという印象があります。でも、私と同じように「大きな出来事」と感じた人は実際にどのくらいいるのでしょうか。

皆さんもご存知のように、昔ながらの情報機関であるテレビや新聞の他に、現代ではネットメディアやTwitter、InstagramやYouTubeなど、色々な情報発信ツールがあるわけですが、それらのタイムラインやフィード画面といった情報があがってくるフォーマットはユーザーの一人一人で全く異なるものになっています。良い言い方をすれば、個々に合わせた情報が集結されているので、ユーザーが希望するものが素早く手軽に拾える仕組みになっているのですが、悪い言い方をすれば、ユーザーが希望しない情報は全くと言って良いほど目に入らないような仕組みになっています。
だから先に述べたように、SDGsやBLM、#MeToo運動に関して、私は比較的多くの情報を拾ってきたと思っていますが、それは私が元々それらに関心があり、「知りたい」と興味を持っていたから多くの内容を拾えていたわけです。では、元々それらに関心がなかった人へはどのくらいの情報量が届いていたのか。


私は丁度1990年生まれの人間なので、これまでの人生は情報化社会に恩恵を受けたものと言っても過言ではないのですが、高度情報化社会によって「情報の届き方」がすごく変わってしまったのではないかと思っているわけです。情報化社会といいながらも、本当の意味で"情報化"と言えるのか?情報が多すぎて、本来は不要だったかもしれない選択肢が生まれ、ある側面では情報が届きづらくなっているのではないか。要は、ある出来事に対する情報力や理解度において大きな格差が生まれるようになってしまったのではないかと、漠然と感じているわけなのです。

そして情報が多いということは、それだけ更新速度も早いということ。
ある問題が発生した際にはもちろん Breaking News!といった具合に、あらゆるメディアが少なくとも1度は発信するかと思うので、このタイミングで言えばその情報を目にする人の数はかなり多いのかもしれません。そして、その後の更新情報=さらなる詳細情報についてや、とりあえずはメディアに露出して騒がれているけど信憑性的にはどうなんだろうか?とか、その問題に対して何らかの興味を持ち自ら内容を深めようとする人がいた場合には、有難いことに最近のメディアツールは怖いくらい優秀なので、その後も関連記事がフィードを埋め尽くすことでしょう。


では、初回1度露出された問題に対して残念ながら「ふーん」で終わってしまい、いわゆる興味が唆られなかった人の場合はどうか。こちらも優秀なメディアツールのおかげで、関連記事はおそらくその後あまりピックアップされず、大抵の場合、いつの間にか忘れ去られてしまい、これが情報の差、知識の差に繋がっている。


●関心とは何か

では、今この世の中に存在する問題とされている事柄について、ただただ「知っている人」の数が増えれば、その問題を解決に導けるのでしょうか。単に、雑学王のような情報通な人が世に増えれば問題は解決するのか。

急に恋愛要素の話をしてしまいますが、自分に対しての相手の気持ちが「嫌い」であるより「興味がない」の方が恋愛成就にはほど遠い、みたいな言い回しをよく聞きませんか?

私なりの解釈にはなりますが、「嫌い」であることは少なからず、相手は自分の素性や相性などを理解したうえで「嫌い」という判断をしてくれています。ですが「興味がない」においては、相手は端から自分と向き合おうとはしていない=存在は確認しているが知ろうとしていない状態であると考えます。もっと言うと、なぜ興味がないのかもその相手はもしかしたら明確には分かっていないかもしれません。


これを、自分=世の中に存在する問題、相手=人々に置き換えるとすると、「嫌い」という判断をした人々は少なからず問題を把握したうえで自分の考え方とは異なるといったような"反対の意見"を出していますが、「興味がない」において言えば、問題の存在は聞いたことがあるが知る努力をしていない、または、どのように自分と関わる問題であるか分かっていないといった見解になり、要は賛同または反対の意思表示もしないということ。とすると、単に問題の存在を"知っている"だけでは、解決にはほど遠いのではないか、と思うのです。


海外から来た人は「日本人はディスカッションをしない」とよく言います(少なくとも私の周りにいる来日者はみんなそうです)が、本当にそうだなと、私は特に最近強く思うようになってしまいました。ディスカッションをしないということは、ディスカッションが出来るだけの意見を個々が持ち合わせていないということです。

会社の会議などで何かブレストしていかないといけない場合、参加者は少なからず個々の考えや意見を出し、なるべく会議が円滑に進むように協力しているかと思います。そしてそれは「ディスカッションをしている」と言えるかもしれません。
では、会社や仕事が関係ないところ、もっとプライベートな時間で、例えば久々に会った友人と会食する時などはどうでしょうか。例えば、その友人が「実は最近、日本の教育制度や方針がすごく気になっていて。今やこんなにも世界はグローバルな時代であるのに、日本の教育制度は約150年もの間ほぼ変化がなく、世界的に見たらすごく日本は遅れているんだよね。」なんて急に話しだしたら、あなたはどう反応しますか?同様に日本の教育制度に対して関心があった人はともかく、大体の人が「へえー、すごいこと考えてるね。意外!」なんて、フワッと会話を終わらせようとしてしまうのではないでしょうか。

会社の会議であなたが少なからずディスカッションに参加が出来たのは、少なからずそれがあなたの仕事であるからです。仕事だから考えざるを得ない事柄であるし、ある意味、会社の社員はほぼ全員が直面するようなとても限定的な事柄であるから。
ですが、友人から突如話題へ切り込まれた、全く予想しなかった事柄においてはどうでしょう。この場合、その事柄に対するあなたの知識量や、その時の立場は関係ありません。その事柄が気になるかどうか、知りたいと思うかどうか、自分にとってどのような影響や関係があるかないか、能動的に判断できる人が日本人の中にはとても少ないのではないかと思うのです。


多くの日本人はとても保守的で受動的。与えられた事柄に対して考え、コツコツとこなして行くやり方が一般的で、かつ日本人らしい働き方のような概念になっています。そして大抵の場合、そのような概念に則り上手く遂行が出来る=優秀である、という見方になる場合が多い。となると、その概念とされる枠内にある事柄だけを達成出来れば全て上手く行くのだ、と思ってしまうのも当然ですよね。だから、もしかしたら本当は重要かもしれない、枠内にデフォルト設定されていない事柄に対しては、興味も湧かなければ関心もなく、意思表示も出来ない状態になってしまう。
しかもこれと同じやり方が、約150年間ほぼ変わっていないとされる日本の教育制度に組み込まれてしまっているのです。例えば、入試や学校でのテスト、授業の在り方を思い出してみてください。入試やテストは良い進学先に進むためみんな必死に挑戦するのですが、合格するための暗記スタイルな勉強に時間を費やし、そして実際に社会へ出た時にはほぼ全て忘れてしまっている。授業も同じく、入試やテストに合わせたカリキュラムになるので、生徒の点数を全体的に上げるためのやり方であり、生徒一人一人の個性や能力を尊重したやり方ではありません。さらには、その生徒間で意見を交わすような参加型スタイルの授業なんてほぼ皆無なのではないでしょうか。


つまり何が言いたいかというと、私たちほぼ全員が通ってきた日本の大きな制度や環境では、勉強の仕方はこれでもか!というほど教わってきたものの、必要な考え方や生き方は教わってこなかったのです。自分は何に興味があるのか、何が面白いと感じるのか、自分は何を選択すれば人生が豊かに出来るかを考えるための考え方を教わっていない。そして、それらを考えるために必要な「自分の意見を持つ」ということを教わってきていないのです。

だから、勉強や仕事には関係がないであろう世の中の事柄・問題を、単にメディアに拡散して人々の目に触れさせ、知ってもらうだけでは、「へえー」で終わってしまう可能性が高い。個々が純粋な関心を持てるようになるために、個々が「自分の意見を持つ」ことが先に必要なのではないかと思ったのです。


●アートの存在価値

私の経歴をあえてお伝えすると、美術系の学校を卒業したわけでもなく、筆やペンの使い方に特別拘っているわけでもないし、世界の美術史に特別詳しいわけでもないです。家族内に著名アーティストがいるわけでもありません。
でも、ずっと私の周りにはアートが存在していたように思うし、今も、これからもきっと変わらないだろうと思います。何かをアートとして見るか、見ないか、もしくは何かに対して「美」を見出すか、見出さないか、と言った潜在的な意識の持ち方次第だと言ってしまえばそれまでなんですが、アートを鑑賞して楽しむことにおいては、その人の経歴やスキル、ましてやセンスなんて本来は全く関係ないもののはずだ、と私は思っています。


自然の要素を使い、鑑賞者の体験を高める大規模なインスタレーション作品で知られる、オラファー・エリアソンという有名なアーティストがいます。つい最近では、清澄白河にある東京都現代美術館にて大きな展覧会を開いていた彼ですが、展覧会前にキュレーターの長谷川祐子氏と出演したスペシャルトークセッションで、「アート」「文化」の存在意義についてこのように語っていました。

アートや文化に出来ることは、常に価値観をチェックして確認し、自分が今どの程度のところにいるのか確認するということ。
文化とは会話のようなもので、難しい会話をするための安全な場所と言える。美術館も同じ。展覧会は、難しいことを話すための安全な場所を作った、ということ。なので民主的な議会と考えても良いかもしれない。議論をしても尚、友人でいられるような場所。
そして作品が自分の感情的な需要を反映していると感じられれば、自分が何を考えているのか探しにいくはず。自分の考えを考えるためには何かが必要で、言語・色・空間・建築など、感覚を言い表せるもの。美術館では消費はしない、自分の考え、アイデンティティを生産する。


この彼の考え方を借りると、作品におけるバックグラウンドや技法はアーティストにとっては必要かもしれないが、鑑賞者にとっては実は然程必要なものではなく、人々が考え、意見を生み出すためのツールのようなもので、ある問題やテーマと人々を繋ぐ架け橋もアートは担っている、といったような言い方が出来そうです。万人に向けたカジュアルな形の問題提起、とも言えるでしょうか。

なので、地球や社会に存在する色々な問題を人々に触れさせ、さらに考え、意見を持ってもらうための方法として、アートが1番最適なのではないかと、私は感じました。そしてそれが、CHIRUDAという「アートを通した学び場」の大きなコンセプトに繋がっています。

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ですが、「アート」「芸術」「美術館」といったワードを聞くと、何か気難しそうな、ハイレベルで敷居の高い、お金持ちの娯楽みたいなイメージを持ってしまう人もいるかもしれません。特に日本ではそうゆう風潮が多いかもしれない。

なぜなら、ここでも先に述べたように、日本の教育制度のなかには「芸術」というカテゴリーがカリキュラムの中にあるとはいえ、技法や歴史などの学術的な内容ばかりで、アートを通して自分の意見や感情を知ること、自分を本当に表現するということにおいては教わっていない。つまり、アートの楽しみ方や触れ方を一般的には教わってきていないのです。そして、まるで美術知識を持った人を棚に上げるかのように、多くの美術館やギャラリーは作品を綺麗に並べては、作家の経歴や技法について永遠と紹介するだけで、色んな人が対等に考えられて楽しめるような紹介の仕方はしていないのです。


でも、あなたも美術館やギャラリーに1度くらいは行ったことがあるだろうし、きっと好きなアーティストやイラストレーター、写真家などがいるのではないでしょうか。詳しい作家の経歴や技法を知っていなくとも、何となく、この人の絵なんか好きだなとか、嫌いだなとか、この写真は何だか温かい気持ちになるから好きだなとか、このイラストゆるくて可愛いなとか、芸術の知識が全く無いと確信していたとしても、なぜか心を踊らされるような、気になる作品に1度は出会ったことがあるのではないでしょうか。


オラファーが言うように、もし美術館やギャラリー、そして展覧会が難しいことを話すための安全で民主的な場所であるのだとすれば、鑑賞者が対等に楽しめる環境を提供するべきであるし、作品の第1印象は色々な人々の目を惹き興味を惹くためのものであり、細かい技法や歴史は然程必要ではなく、ましてや作家が有名か無名かどうかも本来は関係ないのではないか。そしてアート作品とは、ある問題やテーマに対して人々の純粋な関心を引きつけるため、理解しやすくするためのアクティビティツールとして、広く世に伝わっていくべきなのではないかと、私は思ったのです。


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私はここで、日本がこれまで築いてきたアート界に物を申したいわけでは決してなく、むしろ尊敬しているので、何かを大きく変えていきたいと言うわけでもありません。

でも、美術という学問の一般的なレールを歩んでいない私にだからこそ出来て、違った形でも何かしら貢献出来るような、アートを通した何かがあるとしたら、それはきっと、もっと色んな人が対等に楽しめるようなアートスペースであり、今までにない展示の仕方やギャラリーとしての在り方なのではないかと思ったわけです。
そしてそれが同時に、自分の意見を対等にシェア出来、生産的な会話が生まれるコミュニティスペースも叶うとすれば、人々が考え、関心を持ち、少しずつでも行動に移していけるような健全な学び場として、そして、世のあらゆる問題に対しての解決へ少なからず貢献できるプロジェクトとして成り立つのではないかと。


それが、このCHIRUDAというアートプロジェクトなんです。



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ここまで3つのおはなしを掲載し、かなり長丁場だったかと思いますが、従順に完読してくれた方がもしいるならば、誠に有難うございます。私の想いやCHIRUDAの大義、そしてコンセプトが少なからず伝わればとても嬉しいです。

まだ始動したばかり、出来立てほやほやのプロジェクトですが、どうか暖かく見守っていただければ幸いです!
Thank you so much for your time to read!


〜 CHIRUDA / Haruko



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