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神様がくれる最高のものは

10月中旬、突然Twitterのタイムラインがきな臭く、、、というかもう戦争状態になってしまっているイスラエルのニュースで溢れかえった。

ガザ地区のハマスがイスラエルに向けてロケット弾を発射したのだ。

ウクライナとロシアの戦争が始まっただけでも、1945年からの静寂が破れたように平和が崩れていくことへの衝撃があったが、そこにイスラエル地域の戦争に、台湾有事の懸念など、本当に他人事ではない生命がかかった戦争の恐怖を感じる年だと思った。

そんな中、聖書、神様のことを学ぶ私は、最近あることに気づいた。

神様からの一番のプレゼントって何だろう?
という問いへの答えだ。

あなたが神様からもらってる最高のプレゼントって
何だと思いますか?

何でも与えようとしたら与えられないものはない神様が、私たちにくださっている最高のプレゼント。


それは、「命」だと思うんです。

そんなんわかってるよ、と思われたでしょうか笑

誰だって命が1番大事ってことは分かると思います。

ただ、確かに命は大事だけど、
自分が思う最高のプレゼントを貰った時のように、心からの感謝で「ありがとうございますっっ泣」と言えるほど分かっているか?

心から歓喜と喜びが溢れてきて「ありがとうございますーーー!!!本当に感謝!!もう何でもします!!」というほどの反応ができるか?

と言われると、そこまでではない人の方が多いのではないでしょうか笑

私もそうだったんです。
命の本当の価値をわかっていなかったんです。

というのも、教会の牧師さんが感謝について教えてくださる時、いつも一番最初に挙げることが、

「命を救ってくださったことへの感謝」

だったんですね。

それを毎回聞くたびに、何となく心から共感ができないんです。

私からしたら、そんなに大きな危険に晒される経験もなく、平和の中で生きてきたから「命が救われている」「生かされている」という感覚がない。
だから、牧師さんのその感謝に対して、今ひとつ同じように感謝することができなかったんです。

振り返ってみると、1998年に生まれて平和が当たり前、食べ物も寝るところもあるのが当たり前、そんな中で育ってきました。だから、まず命があること、生きられること。太陽があって、空気があって、綺麗な水がいつでも手に入ること、環境が平安であること、食べるものにも寝る場所にも着る物にも困らずないこと。

これらを全てが、自分にとって「当たり前」なものでした。

当たり前の反対語は「ありがとう」だと言ったりもしますが、まさに今までの私にとってこれらのものは、当たり前で、わざわざ感謝して喜ぶものではなかったんですね。

でも最近のあまりにも恐ろしい状況、
いつ自分の家を追われ、母や父、兄弟のことも気にしてられないくらい、今目の前の状況が危険で、自分の命がどうなるかに必死な状態。爆撃や銃を持った兵士から逃れるために助かるのか分からない不安で必死に走りながら逃げ惑う。。。

そういった、もしかしたら明日にも起こるかもしれない生活を考えた時、
今、仕事から帰って準備した夕食のご飯を目の前にして、

「ああ、このようにりんごと野菜、食料が手に入ること、好きなものを食べられること、ゆっくりとテーブルに座って一息つきながらご飯を食べられること。
これがどれほどの祝福なんだろう、、、」

そのように、平和な世界で生きていることの価値、命が守られていることの祝福を一つ一つ、噛み締めるように実感しました。


神様がくださるもので最高のプレゼントは命だと思うと言いましたが、
命を生かす食料も、心を生かす平和という環境も、全て神様がくださるものは、あまりにも私たちにとって根源的な祝福だと思います。

何か特別な豪華な家とか、プライベートジェットとか、世界1周旅行とか、そういうものではなく。(もちろんあなたが本当に欲しくて求めたら、神様の御心=計画、意向があればくださることもありますが!)

神様が私たちにくださっているものは、全てが本当に美しく、命を生かす神秘的な力を持った、値段がつけられないものばかりです。
太陽、星空、空気、水、動物、植物、、、。
だけどそれがあることが当たり前だと思ってしまっているんですね。
命を生かすことができるもの。それは人間にはできないこと。
そう改めて詳しく見てみると、当たり前のように思っていた自然万物も、本当に魔法のように神秘的な力を持った物だと思えます。


私たち人間は感謝をすぐに忘れてしまうものだそうです。
過去、困難な状況から助けられたこと、そこから救われて恵みを得たことを忘れて悪なる行いを再び始める人間の姿は、聖書に幾度となく記録されています。旧約聖書なんかには、しょっちゅうそういう私たちの先祖の姿が描かれています。4000年前の先輩方がそのように失敗を繰り返してきたことから、今私たちは学ぶことができるのもありがたいです。
それらを見ても、人間はどれだけ痛い目を見ても、またそこから神様に助けられて恵みを得ても、時が流れると神様がしてくれたことを忘れて人間中心になり、悪に走ってしまうようです。

だから、牧師さんはこのようによく教えてくれます。

「神様がしてくださったことを絶対に忘れてはいけない。忘れたら死ぬ。」

「過去してくださったことを思い出して、いつも感謝しなさい」

私たちは、強欲にも日本が周辺国に武力を振りかざしていた戦時中、食べ物がなく貧しかった時代から、今はこのように祝福されて物質があふれる中で生きるようになりました。

今、私たちは綺麗な洋服がいつでも手に入り、好きなお菓子や果物、野菜、肉がいつでも手に入ります。

家に帰ったら、暖かいお風呂に入って、暖かい布団で、危険に冒されず静かに眠ることができます。

そうして、朝起きたら仕事にも行って、お金を稼いで、それを使って好きなものや必要なものも得ることができます。

この「何てことない当たり前」が、あまりにも貴重なものであり、実は神様がくださっているものであり、忘れたらいつでも瞬間で奪われるものでもあることを思い、このように文章に残したいと思い投稿しました。

明日にはこの「当たり前」がなくなっているかもしれない。

そんな中で、当たり前が当たり前ではないことに気付かされました。

当たり前のように享受していた自分の命とそれを生かす多様な祝福。
その価値を忘れず、今もらっている幸せを忘れず、
神様に愛と感謝の告白をしていきたい。

改めてそのように感じる今日この頃でした。


サポート代は、神様が喜ばれることに使おうと思います。 神様が愛する人々のために、あるいは教会のために、あるいは日曜日に神様にあげる花代にしようと思います。