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発達年齢域*𓈒木星期♃

心理学で中年を大切に取りあげたのは、スイスの分析心理学者、C・G・ユングだそうです。
彼はクライエントや自分自身の体験を踏まえて、中年において、人間は大切な人生の転換点を経験すると考えるようになりました。

人生の前半が自我を確立し、社会的な地位を得て、結婚して子どもを育てるなどの課題を成し遂げるための時期とするならば、そのような一般的な尺度によって自分を位置づけた後に、

自分の本来的なものは何なのか、
自分は「どこから来て、どこへ行くのか」

という根源的な問いに答えを見いだそうと努めることによって、来るべき「死」をどのように受入れるのか、という課題に取り組むべきである、と考えたのである。

太陽が上昇から下降に向かうように、中年には転回点があるが、前述したような課題に取り組む姿勢をもつことにより、下降することによって上昇するという逆説を経験できる。

引用:「中年の危機」河合隼雄

ユング派心理学者の河合隼雄氏の言う
人間の根源的な問いに答えを見いだそうと努め、「死」の課題を受け止める姿勢をもつことにより
「下降することによって上昇するという逆説を経験できる」
かどうかが人生の中年、それ以降の大きな鍵になりそうです。

占星術:木星期♃発達年齢域46~55歳

占星術の木星期♃は、中年期の後半にあたります。

木星期♃は木星の天体が象徴する
「拡大・発展・成長・倫理・知恵・社会的善の意識」
が獲得すべきテーマになります。
もうすでに個人の域を超えて社会に自分の能力を与えていく力になります。

木星♃は占星術ではグレートベネフィックと呼ばれ幸運の星とされています。
中年期後半が木星期とされるのは、ただ単に天体の公転周期順に当てはめたからだけでしょうか。
自分は下降していく中で、成長が獲得テーマになっているのはなぜでしょう。

火星期♂でも書きましたが、
エリクソンの「心理社会的発達理論」では
成人期後期の心理的主題を
次世代育成能力(generativity) VS停滞性(stagnation)

「自分が大事にし、価値をおいているものを伝え、しかも求めるようにそれが受けとめられ、理解されたときに感じる満足感」
を知るようになるとされています。

与えることそのものに満足感を体験していく。
社会に与えたり、自分の能力を社会に受入れられる形に育てることがこの時期の課題のようです。

中年期後半にきて、今までのように上昇だけを求めていたら下降にしか目がいかないでしょう。
与えること
育てること
自分以外のものの発展に力を注ぐことが
自分自身の「成長」にも繋がるのではないでしょうか。

ですが、今まで積み上げたものがなければこの木星期♃で与えることも、育てることもできません。

また、この時期に子どもの自立で役割を失って自分の目的を失ってしまう人もいます。
特に女性は、子どもを育てることが自分の生きる目的になってしまってる人がいます。

木星♃は、火星♂までの天体とくくりが違います。
巨大ガス惑星で、その天体の特徴の通り、巨大な社会全体を象徴しています。

子どもという個人的な繋がりより、
もっと広い視野を
高い視野を持つことを
促されているような気がします。

次世代育成能力が育たなければ、停滞の感覚の浸透と人間関係の貧窮化で、心の関心の的が次の世代でもなければ、他人でもなく自分の満足が中心を占めて自分自身のことばかり考えるようになってしまうとされています。
これでは、次に備えている土星♄期以降の老年期が苦悩に満ちたものになるのは容易に想像できます。

★木星期♃の重要な星の配置
50歳頃 キロンリターン
生まれた時のキロンの位置に今のトランジットのキロンが戻ってくること

キロンは占星術で扱うメインの10天体ではありませんが重要な天体だと認識しています。
土星♄と天王星♅の間を起動する天体で
小惑星であり彗星であるキロンは、
土星♄までの現実世界から、
そのもっと高い視点となる天王星♅
への橋渡しをしています。

このキロンが、戻ってくるキロンリターンは
「魂の解放・成長、自立」
とされています。


𓂃𓅫 ∗︎*゚
私はまだ到達していない木星期♃ですが、周りを見ていると、この辺から真の人間性が問われると感じます。
自分のことだけしか考えられない人は不幸です。
私の父親がそうでした。
母親が早くに亡くなった不幸を不幸のままにして、育児を放棄し自分のことだけを考えて生きてきた人の老年期は哀れです。
失うことだけ、下降にしか目がいきません。

逆に、父親の姉で、自身が母子家庭で子育てをして大変にも関わらず、私に積極的に関わってくれた叔母は与えることができる人でした。

「与える」と言うと、特別な能力があってそれを社会貢献に役立てるように聞こえますが、そんなに大それたことではないのでしょう。
自分の目の前の人や出来事に真摯に向き合う。
自分に降りかかってきた厄介としか思えない出来事でさえも、一生懸命に取り組む人の姿勢は、見ている人に言葉よりも重い何かを与えます。

人生で思い通りにいかない出来事や、思いがけない出来事は、道草を食わされているようなものだと河合隼雄氏の本にあります。
夏目漱石の『道草』を紹介したり、小説の物語から中年の危機について書かれた本です。

しかし、その道草こそ、個人を個人らしく形成させるものなのです。
自分の予定していた人生ではないと、突っぱねる事も選択肢の一つでしょう。
選択するのはいつでも自分にあります。
ですが、その選択肢の中で自分以外のことを考え高い視点を持てるのが、「与える視点」であり、木星期や中年期後半に求められる力なのではないでしょうか𓂃𓈒𓏸

思いがけないことによって軌道を狂わされるというのは、自分が予定したり、周囲が期待したりしている道筋から言えば、明らかに余計な「道草」を食わされることになるのだが、実のところ「道草」には深い意味がある。

一般に「道草」と見えることに対して意義を見いだすことは可能であり、このごろはやりの「自己実現」などという語を使おうとすると、むしろそちらのほうこそが、自己実現の王道であると言えるように思えるのである。

「己のせいじゃない」としか言いようのないたくさんの道草を食わされて生きている。
その細部のひとつひとつを高い視点からしっかり見つめること。
「己のせいじゃない」と言いつつ、それをやっているのはやっぱり自分なのだ。
自分にもわからない自分を生きることは、その自分を自己と呼ぶならば、自己実現ということになる。
自己実現は到達するべき目的地なのではなく、過程なのである。

引用:「中年の危機」河合隼雄

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