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お笑いにとって関西弁のアドバンテージとは。

『言い訳  関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』塙 宣之

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ナイツ塙によるお笑い論です。

発売後すぐ本を買うということをあまりしないのですが(元々本をあまり読まないので)、これはすぐ買いました。

ブログではこの数か月、もっぱらコロナのことばかりで、お笑いのことについては半年間ほったらかし。

今思い出して、ようやく感想でも書こうと。

ナイツ塙はお笑いを語る資格がある

ナイツ塙が「M-1グランプリ」をベースにお笑い論を語っている訳ですが、本来、お笑い芸人がお笑いを語るという行為をあまり快く思ってないんですよね。それはすでにテッペンまで上り詰めた芸人にだけ許されるものであり、中途半端な芸人がやってもサブいだけなので。

ではナイツ塙はどうなのかというと、「ギリギリセーフ」です。

キャリアとして、お笑いをメタ的に語るというのは早いけど、彼にはその資格があります。

まず彼の芸の中心となる漫才が非常に高度で面白い。ヤホー漫才だけでも腹がよじれるほど笑わせてもらうのに、ヤホー以外にも実験的なネタをいくつもやっています。例えば、相方の土屋が歌をフルコーラス歌いきるネタとかね。

彼はお笑いの方法論を研究しながら、実際に舞台で実験し、しっかり笑いを獲るということを続けている芸人なんですよ。

お笑いと言うものを常に客観的に分析し、ほかの漫才師のネタもしっかりと観察している。だからM-1の審査員としても相応しい。


中川家は新ネタを作れ!

先にちょっと話を逸らせますが、私がM-1史上最も好きなネタは、初代王者の中川家のやつでして、もちろん中川家はデビュー間もない頃からのファンです。

でも中川礼二が審査員をやっていることについては反対なんですよ。

中川家は才能があるのに怠けすぎです。何十年同じネタやるつもりなんですか。

トークも漫才も抜群に面白い。けど、漫才のネタはいつまでも同じもの。中川家のファンはもっと新しいネタを観たいんですよ!現状に胡坐をかく者に他人を評価する資格はありません。

審査の眼も、審査員としては若手なのに、保守的過ぎて全く面白くありません。


非関西芸人の持つ関西芸人へのコンプレックス?

さて、話を戻しましょう。

この本における塙の観点は、「M-1」という大舞台での非関西芸人が持つ上方芸人への憧れと尊敬と嫉妬に満ちた、非常に複雑な感情をベースにしたお笑い分析です。

非上方漫才師が持つ上方漫才師へのコンプレックスについては、かのビートたけしも著書で「やすきよが羨ましかった」と語っています。

それこそやすきよ漫才や吉本新喜劇を観て育った生粋の関西人である私には逆によく分からない感覚なのかもしれませんが、お笑いにおける標準語というのは関西弁なのかもしれません。

でも関西人である私にとって、「漫才=関西」という等式は頭にないんですよね。というのも、「お笑い観たいからとりあえずYouTubeで」と言うノリで漫才あるいはコントを漁る時、そのコンビは、ナイツ、サンドウィッチマン、バイきんぐの3組であり、関西コンビは…というか関西人は一人も入ってないのです。少なくともミルクボーイがM-1で優勝するまでは。ブラマヨがネタをやり続けていたらここに間違いなくここに入ってくるのですが、もう漫才ほとんどやってませんからね。


関西弁でないと成立しない笑いとは?

じゃあ私が非関西のお笑いが好きなのかというと、そもそもそこで区別はしてないと思うんですよ。

私の知る限りにおいて、「関西弁でないと成立しない漫才」というのは、横山やすし・西川きよしと中川家…くらいしか思いつきません。

例えば、紳助竜介は京都のヤンキーキャラですが、あれは東京弁でも成立します。と、こう書いた時に紳助竜介が東京弁を喋っているところを想像してしまいがちなので違和感がありますが、あくまで紳助竜介とは別の、足立区かどっかのヤンキーが同じトーン、同じ間でやっても、ほぼ100%そのエッセンスは変わらないだろうと思うんです。

やすきよが関西弁でないと成立しないのは、第一に、そもそも横山やすしみたいなおっさんが関西以外に棲息していないということがあります。あの喋り方は関西人ですらマネをするのに相当な技術が要りますから。

中川家は漫才のスタイルそのものが関西弁…というより関西文化に依存しているものです。もちろんベースの台本を標準語にアレンジすることは可能ですが、剛のボケは「緊張と緩和」の「緩和」への落差が大きく、その落差は関西弁の独特な間抜けさと言うか、緊張感のなさがないとなかなか再現できないものです。


やや特殊な存在として、夢路いとし・喜味こいしという漫才師がいます。彼らは元々旅芸人一座の息子たちで、「地元」という概念が極めて薄かったものと思われます。ネイティブな言葉としては一応標準語。それが上方で漫才師をやるとなって、東京弁イントネーションの関西弁、要するにエセ関西弁を使った訳ですが、これは大成功でした。この独特の言葉が、関西人ですら出せない脱力感や親近感を生み出し、面白いことに上方漫才の神様のように扱われるようになったわけです。


関西芸人としてのダウンタウン

さて、「関西弁」をキーワードとして考えた場合に、極めて特殊なのがダウンタウンです。

まず漫才についてですが、ダウンタウンの漫才における関西弁というのは、あくまで調味料であってエッセンスではないように思えます。しかし、浜田のツッコミはやはり関西弁でないといけないんです。これ、どういうことかというと、松本の書く台本自体は言葉に依存しないのに、ダウンタウンの漫才となってしまうと、ベトナム料理におけるパクチーのように、それが調味料なのか中核を成す具材なのかよく分からなくなってしまうのです。浜田は時々、わざと東京弁で突っ込むという技法を開発しましたが、これはベースが関西弁だから面白くなるわけです。


そしてコント。ダウンタウンが『ごっつええ感じ』などで見せたコントの多くは完全に100%関西弁依存と言って良いかもしれません。

例えばカッパの親子。あのコントのパターンは、カッパのおっさんが人間の親子にキレて説教、すると人間のおっさんの地雷を踏んで、その10倍返しでブチ切れられるというもの。このコントにおける、「カッパのおっさんのキレ方」「人間のおっさんの物凄いキレ方」「さらに弱気になった『まあまあ御主人、ここはひとつ大人になって…』というカッパのおっさんの諭し方」この抑揚は関西弁でないと成立しないものです。

あるいは『AHOAHOMAN』。このコントで重要なのが、浜田演じる男の子。普段は、『鉄人28号』の正太郎君をモデルにしたであろう、いかにも育ちがよく、利発で、勇ましい男の子ですが、ひとたびアホアホマンがボケると「わしに撃ってどないすんねん!」と河内のおっさんになってしまいます。これはもう、関西弁以外にはやりようのないコントで、標準語にアレンジしたとしても大幅にパワーダウンしてしまいます。

『Mr.BATER』では、エセ関西弁を操る白人を純関西人が演じます。あのエセ関西弁は、関西人だからこそ理解でき、再現できるエセ感であって、関西弁が喋れない、いわば「ネイティブなエセ関西弁」であってはいけないのです。


おっと……この本についての感想を書こうと思ったら、お笑いの方言論だけで3000文字。ワーワー言うとりますんで、この辺で。続きは書くかもしれないし、書かないかもしれません。










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