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マタイ福音書 43節 16~17 クリスマスの思い
耳あるものは聞け。
この世代を何にたとえようか。
子どもが広場にすわって互いに呼びあうのに似る。
われらが笛を吹いたのにあなた方は踊らず、
哀歌をうたったのにあなた方はなげかなかった。
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マタイによる福音は
聞くものと聞かないものを区別し、
踊るものと踊らないものを区別する。
そして、福音を聞かないものと聞くもので区別している。
色々な宗教を見て、感じてきた中で、
キリスト教には、どこかに差別を助長する文々があるような気がします。
どの様な神でも、信じるのは個人の自由ですし、
個人の力でどうしようもないことが起きた場合、
神にすがるのも良いでしょう。
それが、人だと思います。
根本の聖書に、書いてあります。
信じるものと信じないもので区別する神は、
どうなんでしょうか。
議論して、どの様な意味があるかはわかりませんが、
たとえば、旧約聖書における矛盾。
神の呼び名が二つあります。
ヤハウェとエロヒム。
なぜか、ヤハウェは単数形で、エロヒムは複数形です。
絶対神のはずなのに、名前が二つある上に、片方は複数形と言うことは
エロヒムは複数いたと人間は認識していたのですよね。
聖書の記述でもエロヒムは複数現れますし、
これが絶対神だ、信じろと言われても、技術屋の自分は信じれません。
だって、「1+1=2」は、「2」です。
「神+神=神々」なら、「神々」が真理でしょう?
日本は多神教が基本にあるので、一神教にこだわることは無いですが、
海外で、一神教を信じる人々は、排他的な傾向があるような気がします。
まぁ、困った時の神頼みは世界的にたくさんありますが、
技術屋は自分の腕と能力を信じて、最後の最後、血反吐を吐いても
神にはすがりません。
自分の目と耳と腕、知識や知恵を総動員して、対処するしかないのです。
自分達技術屋は広場で呼び合う子供と一緒で、
自分の力でかなわない敵にも、戦いを挑み、
負けても、負けても、立ち上がり、
そして立ち向かうしかないのです。
働くとは、そう言うことだと思っています。
クリスマスが近づいて、
昔の仕事を思い出しています。
そんなクリスマスイルミネーションが点滅しています。
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