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「つらいときこそ笑え」に「待った。」

こんにちは。
転職して以来、ランチは基本的にお手製の弁当で済ませているのですが、週に1回はせっかくの弁当を家に忘れてしまいどうしたものかと思案に暮れています。
忘れ物を防ぐライフデザイニングに本腰を入れて取り組みたい今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

さて、今日のテーマです。

別につらいとき無理に笑わなくてよくない?

根があまのじゃくなので、何にせよ"A"と言われれば"Not A"を反射的に突き返したくなる僕なのですが、
とりわけこの問題に関しては一言述べておきたいと思って、あえて記事を書くことにしました。
心は血まみれ傷だらけなのに、わざわざ笑っていなきゃいけないもの?人生ってそこまでつらいのが標準仕様?
最近疑問に思っているこの点について、少しばかり考えてみたいと思います。


「つらいときこそ笑え」という美徳

「つらいとき、苦しいときほど笑っていなくてはならない」
「つらい顔、苦しんでいる顔を、他人に見せてはならない」
こういう考え方を美徳とする考え方は、たしかに一部の世界には存在しています。
ショービジネスの世界や、表現力がモノを言うスポーツにおいては、そのときの感情に反する表情を無理やりにでも作り出すことが、しばしば求められるものです。

たしかに、人前に出る仕事や、人に何かを見せて人を魅せる競技・アート等においては、最後のひと踏ん張りを引き出す一手段として、「苦しくても笑う」ことは有効なのだろうと思います。
最高のステージを作り上げるために、後悔しない結果を得るために、最後の最後、一番苦しい瞬間を笑顔で乗り切る。
そこまでして手に入れたいもの、手にしなくてはならないものがある人たちにとっては、「つらいときこそ笑えるかどうか」は重大な分かれ道になるのかもしれません。

あるいは、迫りくるピンチに押しつぶされるわけには絶対にいかない、という瞬間、
ここで負ければすべてを失う、といったタイミング、
絶望に負けて頭を働かせたり身体を動かしたりすることを放棄した瞬間、さらに深い絶望に引きずり込まれる、という瀬戸際であれば、笑うことで底力を引き出して逆転の余地を探る、といったやり方は大いに有効性をもつでしょう。
どん底から這い上がった人たちの人生を取り上げるテレビ番組の「ここぞ!」という場面で、「絶望の中、それでも前を向いた」という賛辞が送られることはありふれていますが、それもまた、事実の一面を正しく切り取ったものではあるのでしょう。

しかし、ありふれた日常の中で起こる出来事にまで、果たしてそれは必ずしも当てはめられるものなのでしょうか。
僕の目には、「苦しいときこそ笑う」という手段は、華やかな世界や特異な状況で「美徳」として語られすぎるあまり、適切とはいえない場面にまで持ち込まれるありさまになっているように見えます。

良薬も、度を越したり間違った使われ方をすれば毒になります。
同様に、目的にそぐわない手段はときに、求めるのと真逆の結果をもたらしかねません。
「つらいときこそ笑え」という文句だけを切り取って美化することは危険ですらあると僕は思います。


笑わなくても別にいい

初手から身も蓋もありませんが、つらいときこそ笑うことの《ヤバさ》について、メンタリストのDaiGoさんも言及しているので、ここで引用しておきます。

https://daigoblog.jp/blessing-laughinggate/

要は、自らの認識を無理やり無視して、自己の感情とそぐわない表情を作ろうとすると、感情をうまくごまかせるどころか、かえって不快な気分が勝ってしまうのだ、ということかと思います。

多くの人は、つらい状況や耐えがたい状況に陥ったとき、その場しのぎでやり過ごして逃げたところで、明日も明後日も状況が変わることがないと知っています。
無理に笑って心を軽くしたとて、軽くなるのは自分の心だけであって、自分を取り囲む物事の側が都合よく変わってくれることなどありません。
そのことを冷静に受け止め、「どんなに笑ったってつらいものはつらい」ということを認めていると思うのです。

クラスメイトからいじめられて苦しい状況を、明るく笑って乗り越えるーー。
そんなエピソードが現実的なものとして語られることも、ずいぶん少なくなったように思います。
つらいけど笑おう!と本人がいくら思ったところで、いじめそのものが止んでくれるわけではない。
笑うことで絞り出したエネルギーを、いじめを跳ね除ける思考やアクションに転化できた、というのであれば別かもしれませんが、無理に笑ってその場しのぎのポジティブさを得ること自体に意味があるかといえば、大いに疑問です。
いじめ問題が深刻に扱われるようになるにつれて、その点についても世の認識が改められたのかもしれません。

「先の見えない絶望を笑って乗り越えた」という美談が教えるのは、「つらいときこそ笑え」という、単純な教訓ではないと思うのです。
無理に絞り出した力を、どうにかこうにか状況を打破する方向に振り向け、それに成功したというところまでが語られるべきなのであって、「つらくても笑った」という部分だけを切り取って讃えることは、大いなる悲劇につながりうると、僕は考えます。


つらいときに見るお笑いのしんどさ

かつて僕も、嫌なことがあった日や苦しい気持ちになった日に、どうにか気持ちを明るくしようと、テレビのお笑い番組を見漁ったりしていました。
しかし今思えば、そういう努力は逆効果で終わることのほうが圧倒的に多かったような気がします。
テレビの中の人たちは、俺の気持ちそっちのけでこんなに楽しそうに笑ってる騒いでる。
この人たちが、俺の気持ちをわかってくれるわけじゃないーー。
そんなのは当たり前といえば当たり前のことなのですが、それがいやにネガティブに捉えられてしまって、余計にうんざりしてしまうということが、不思議なくらいよくありました。

打ちひしがれた心を無理やりポジティブな方向に引っ張ろうとするのは、こわばった身体をくすぐるようなものだと思うのです。
それが刺激になって奮起できるケースというのも、中にはなくもないでしょう。
でも大概の場合、無理にくすぐられて笑わされるというのは、大いなる苦痛すらつながりうる一種の暴力です。

夢も希望もない状況をさまよう人に対して「笑え、そして乗り越えろ」と命じることは、無責任で残酷な行為なのかもしれません。
目の前に立ちはだかっているそれは、本当に乗り越えるべき壁なのか?
壁を超えてまで進み続けた先に、ちゃんと求める何かがあるのか?
今の状況は、つらい気持ち、苦しい気持ちに蓋をして、無理やりエネルギーを絞り出してまで付き合うに値するものなのか?
とにもかくにも笑うより先に、そこを考える必要はないのか。
その大前提の見極めがついていない限り、「つらいときこそ笑え」という文句は、無責任な思想の押しつけになってしまうと言えないでしょうか。


笑うより先にすべきこと

僕は、つらさや苦しさを跳ね除けるよりもまず、そのつらさや苦しさを受け入れ、ありのまま認めるほうが先だと思っています。

おそらくこれは言うほど簡単なことではありません。
何がどうつらいのか、そして自分はなぜそれをつらく感じているのか、それをきちんと分析して受け止めることはなかなか大変です。
なぜならその過程で、それまで信奉していたものがまがいものだったと認める必要が出てきたり、向き合いがたい根源的な感情と向き合うよう迫られたり、大切にしていたプライドを捨てる選択をせざるを得ない場面というのも、しょっちゅう出てくるからです。

しかし、それは逆に言えば、つらいとき苦しいときこそ、自分の本当に求めるものを見出すチャンスであるということかもしれません。
ごまかさずに目一杯つらがったり、じっと自分の思いと向き合うことで初めて、自分が嫌うもの、嘘をついてまで好きだと思い込んでいたもの、本当に欲しいものに気づける場合もあります。
それはきっと、つらい気持ちに外面だけのポジティブで無理やり蓋をし続けていたら、決して辿り着けない境地なのではないかと思います。


おわりに

ということで、いつもより若干お涙ちょうだい感のある「泣いてもいいんだよ」的な記事になってしまいましたが、いかがでしたでしょうか?
我ながら誰目線で何を偉そうなことを書いているのかと、恥じ入るばかりの思いです。

でも、つらいときにはまずつらいと認めるのが何より大事で、笑うかどうかは二の次だというのは、ずっと変わらず思ってきたことです。
我慢することが美徳だと思って生きていた時期もありますが、振り返ってみるとつくづく、良いことのほうが少なかったと感じます。

無理に笑うことそのものを否定するつもりはありません。
要は使いどころの問題であって、すべてに当てはめると間違いかねないぞ、ということを言いたいのです。
それは今回扱ったテーマを超えて、さまざまなことについて言えることかもしれません。

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