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期待の質

30を少し手前にして、やっと意識できるようになったことの一つに「自足」がある。

自立とは似ているが少し違う。

自分で自分に最高の時間をあげれること。いっぱい騒いで、泣こうが、喚こうが、笑おうが、悩もうが、自分で初めて自分で終わらせること。自分を保てるぐらいに、人に期待しすぎないこと。自分だけの人生の快楽をたくさん知ること。そのうえで、分け合える人とは分け合うこと。

これがまず何より大切だとここ数年で身に染みて意識したことで、ますます幸福な日は増えた。

その中でも期待するということについて、文を巡らせてみたいと思う。


私は人に期待しすぎる人間だった。

後輩をたくさん持ち、教えることが増えるようになってからは特にだ。私は自分が特段仕事ができるような人間ではないと思っていたし、入ってくる子は私より素直で穏やかで、素敵な子たちばかりだった。なので、私にできることは、みなできるに違いないと思ってしまっていた節があったのである。

期待というのは厄介だ。期待は自分と相手が違う人間だという当たり前の事実を巧みに隠す。その気がなくても、いつの間にか同化して考える方向に引っ張られ、縄で縛られたように考えが固まってしまう。

私(さえ)もできたのだから、きっとできるはず。もう何ヶ月も経ったのだから、できるはず。スピードと教え方を気をつければ、できるはず。きっと、あの子なら。

非常に危険であるが、いとも簡単になりやすい状況である。そして、相手ができなかったことに過度に落ち込む。自分の伝え方が悪かったと悲しくなる。イライラとすることさえある。

しかも、期待することは愛情の一つに数えられることもある。「〇〇さんがあれだけ叱ったりアドバイスをくれるというのは期待されてる証拠だよ」とか「期待されてるうちが華だぞ」とか、社会では1度は聞いたことがある言葉だ。

本人の特性をよくよく観察せず繰り出される勝手な期待が愛情であるはずがない。ましてや、それでイライラされても知らんがなである。

これは、家族、親子、恋愛、友人関係いろいろな場面でも言えるし、案外あることなのではないだろうか。愛情が交差し合う場ならたびたび起きることだろう。


しかし、だからと言って期待が悪いわけではない。

期待するのが虚しいから、期待は裏切られるから。それで一律に全て期待をやめ、諦め、冷めた目線を送るのは、果たして愛だろうか。想像してみると、容易にわかる。そこには愛はないし、人生の喜びもないだろう。期待することが愛情の一部であることは、それもまた一つの真実である。

問題なのは、期待の質だろう。

相手に何かを伝える。或いは指摘する。議論をする。その結果相手に伝わり、相手が変わるだろう。そこまでを無意識にでも期待するから自分も苦しくなるのである。

こっちの主張を聞き入れ、その結果どうするかはその人の自由意思の上にあるのであって、もうこっちの手を離れている。だが、意識せずともそこまで手が及んでいるような気になってしまうことがいけない。

もっと相手そのものを見る。伝える言葉、シチュエーション、タイミング、全てにおいてもっと細部まで考える。そして、きっと伝わってくれるだろうまでは、愛を持って期待する。その先はなにも発言せず、見守るだけの勇気を持つ。

それがきっと、愛情をたたえて、自分も苦しくならない期待のしかただろう。


何千人、何億人の中から、せっかく出会えたあなただから。家族でも、友人でも、恋人でも、仕事仲間でも。少しでも愛情を持ってあなたを見ていたい。

これが、私が愛を失わず、そして「自足」するための一環として、今出している答えである。

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