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消したい、deleteキーを探す。

苦労したことなんて山ほどある。でも不幸自慢がしたいわけじゃない。

ただ、もしやり直せたらもう少しまともにできたんじゃないかという後悔が、時間が経過した今でも蘇ることがある。

全く悪気は無いのに、そのときの勢いで、周囲の流れに便乗する形で誰かを傷つけたとき、相手の傷口を目掛けて何度も言葉を撃ち込んだとき、雑な返事で答える余地も与えなかったとき。

人付き合いってすぐ疲れる。
相手が誰だろうと自己肯定感が低いときは角が立っているままなのに接近する。ごくたまに相手にぶつかることで角が取れることを期待したこともあった。
なんて未熟な発想なんだ、と今は思える。それは年齢や経験則とかじゃなくて、ただ単に今はそこまで自己肯定感が下がっていないからだ。

これから先でも心が荒れたらぶつかる場所を探すだろう。その壁がたまたま人になるかもしれないというだけだ。

大人に自分のことで相談したことがある。
「私って、自分がうまく立ち回れれば最悪ノルマクリアみたいなところがあって、他人にそんな興味がないんですよね」と言った。
この言葉の真偽は自分でもわからない。そのときの捉え方次第で真にも偽にもなりうる。ある意味どっちつかずで、卑怯な先手をとった。

すると、「他人に興味がないっていうのは、他人に興味を持ちすぎていることの裏返しだと思うよ」と返された。

この返答が今でも肩のあたりに刺さっているような気がしている。この一本の発言の矢がまだ抜けない。

まず、中高生のコンプレックスは明らかに周囲との過剰な対比のせいだ。興味があるというよりは、興味をなくすことができなかった、気にしないという選択肢が取れるような楽観的な考えはまだ持っていなかった。
悲観的で負の連鎖を生み出していたパッとしない人間が、突如楽観的になるなど、夢物語だ。アクティブな行動を試みた暁には指を差して笑われる。そう思い込んでいた。自信が皆無だったから。

波風を立てずに、最底辺にどっぷり浸かり、燻った位置のまま所謂青春を過ごしていた。

今考えれば、もっとおしゃれになりたいと思ったのも人の目を気にしてからで、マシになりたかった。人に悪い印象を与えたくなかった。

街を歩いていても、知らない人とすれ違うのもどこかで気にしている。目を合わせるようなことがなくてもすれ違う人の挙動は見えてしまう。イヤホン越しに音楽を流して聴覚で多くを感じ取らないようにしてようやく落ち着いて歩くことができるぐらいだ。視覚の情報量は膨大だがイヤホンをすると幾分かマシにはなる。

他人に興味すごいあるんじゃん。と言われても仕方がない。生まれつき気にしているみたいだ。

失敗をしたタイミングまで戻ってやり直したいとは正直あまり思っていない。

この体質にならなかったらどうなっていたのか、生まれつきで楽観的で成長したらどうなっていったのかが知りたい。生まれるところから変わりたい。

深刻そうに長々と書いてみたけど、生まれ変わりたいというのはそこまで本気では思ってない。

それこそ興味がある。これはきっと真だ。

自分を甘やかしてご褒美に使わせていただきます。