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反吐が出るなあ。


今日も今日とて。

お笑い賞レースをテレビに釘付けになってじっと見たことが今までに一回もない。

本日、9/26にはキングオブコントがテレビで放送されていたが、見ていない。絶対に見たいと思ったこともないが、流し見した記憶もない。

同じ時間にテレビで流れていたのは、志村どうぶつ園の最終回だった。あまり見ていた記憶はないけれど、長い間お疲れ様でした。

チャンネル権は持ち合わせていない。望んでこうなっているわけでもないが、今頃抵抗する気も起きない。私はテレビに背を向けて見向きもせず、無表情で黙々と食事を済ませる。

「動物なら誰でも癒されるに違いない」という前提が苦手だ。

反例は少なからず存在する。刺激的な内容に最も遠いコンテンツかもしれないが、「最も嫌われづらい」と「最も好かれる」は別物である。別に好きでもないし、そもそも癒しをテレビ番組には求めていない。楽しませるコンテンツであってほしい。

(なんてわがままなのだろうか。目当てがなければテレビをつけることすらしないのに、こんな堂々たる文句をぶつけられるほど大した視聴者ではないのに。)


テレビで放映される番組には、演出として客の笑い声や驚きの声のサンプルを随時挿入していることがある。あれは本当に興醒めする。聞きたくない。一体感を生み出したいのかもしれないが、臨場感とリアルさは確実になくなっている。

今晩はというと。

テレビの音も、それに伴う家族のリアクションもダメだ。
耐えられず食事中にもかかわらずワイヤレスイヤホンをこっそり耳に引っかける。髪が長いと良い意味でも悪い意味でも気づかれにくい。聞こえていないのかとイライラされることはしばしばあるみたいだ。それも承知のうえで逃避している。

たまらず、一番好きなあの曲を選んだ。

ネクライトーキーのオシャレ大作戦だ。

https://note.com/children_of__/n/n680c1f4baebb
(一番好きな曲だと書いた記事はこちら)

(MVはこちら)


自暴自棄になりかけていたところだ、助かった〜〜。

またこんなオシャレさを履き違えたような自分を肯定してくれる曲に助けてもらっている。

捻くれるのも程々にしたいと思いながらも、真っ当に生きるのはもっと嫌だと常々思っているからきっと治りはしないだろう。

正当化してくれるものしか信じないようになっているのかもしれない。
甘えだと言われようと、厳しすぎる現実を受け入れてあげられるほど出来上がった人間ではないし、そこまで期待してくる大人は嫌いだ。近寄ってこないでくれ。

主張の声が大きくても小さくても淘汰されるらしいよ。

いつからか「○○が見たい」と主張することもできなくなっていた。私の中で、その番組が見られなかったら仕方がない程度にしか思っていないのもあるが、言葉にしにくい難しさがある、もどかしさがある。

自己主張をぶつけるのが極端に苦手になった。自己主張なんかを誰かにするだけ無駄だと思い込んでいる節がある。
そんなことは自分で抱え込んで自己解決する方がマシだと割と本気で思ってしまっている。

長いこと同じ考え方で生き延びてしまっているから、数時間、数日経過すれば忘れるってことはわかってる。

しかし、その地雷処理に向かってわざわざ自分だけが被害にあっている時は、不快と苛立ちと癇癪、ムシャクシャと悲しみが一気にタックルしてくる。たった1人でポツンと立っている私に向かって囲ってぶつかってくる。
痛いどころじゃない、余裕で負傷する。なんなんあれ、ラグビー日本代表に列島が湧いたときに飲み会で話題にしたいがためにタックルだけ練習したろ、痛すぎるんだわ。

厳しさで統制して楽しいの?

フルボッコ(古い)にされたときに、厳しい現実を突きつけられて嬉しい人がいるだろうか?

悲しみに大袈裟もオーバーリアクションもない。そんなの受け取り手次第だろう。

大ダメージを背負ってるんだから肯定してもらって何が悪いんだ。

ダサい自分でもいいって寄り添ってくれる存在しか信じない。
自分に溜まった負の感情の矛先を誰かに向けて攻撃しにいくよりは700000000倍マシだ。


今日も散々なぐらい疲れてしまった、いつもどこか疲れるポイントがある毎日だ。
慣れたいけれど全然慣れない。

ダメージを重ねた分だけ懐の深い人になれると願いながら、明日もダメージに立ち向かうのだろう。


お風呂にゆっくり浸かってピカピカになって鼻歌でも歌いながらドライヤーで髪を乾かして、毛布をかけて寝よう。


おやすみなさい。



ここまでお読みいただき有り難うございました。

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