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潔癖を繕う

通りすがりのコメントに耳を傾けてみる日もあれば、ノイズキャンセリングして目に見えない結界を張る日もある。

Twitterとは比べ物にならないぐらい無人格で歩行者天国のようなSNSがある。
そこは独り言をただ投稿して、かまってほしいような挙動をするなり、ストレスの捌け口に利用するなり、最大限の自由が拡大し続けている。
無視するはもちろんのこと、気になったらリアクションしたりコメントを送ってみたり、文面上のやりとりを重ねることができる。

出会い系と勘違いしている欲に素直なアカウントもちらほらいるのはどこにいっても変わらない。まあでも、性質上少ないのは考えればすぐわかるし、出会い系にいった方がいいと察してすぐ消えていく。誰も追いかけない。

エンカウントに期待しないその地で、何を求めているのか。
人々が出すガラクタに心動かされる人って、実は結構存在していると勝手に思っている。
身を綺麗に保ち、文句は言わない、戯言を述べれば嫌われる、出た杭は打たれる教育。
公に声を出せなくなった人が何を思っているのか、端に追いやられたような錯覚でコメントを書けばそれは全世界の人が見ている。

相談する相手は友達じゃなきゃいけない、は遥か昔の発想な気もする。
むしろ仲が良いからこそ、破滅を避けるために言葉を忖度する。
知らない、知る由もないが故にまっさらな0から1を足していける。アドバイスほど出過ぎたことを言う気もなければ、聞く気もさらさらない。冷やかしてもダサいコメントをくれてやってもいい。

どんな人かはどうだっていい。反応してくれなくてもいいし、呼びかけに答えてくれなくてもいい。

でも、これを書き込むと、誰かが見ている。見てしまっていた人がいる。

この手が指差す通りに、世界はたった一人のものにもできるし、絶対に一人になれない世界にもなる。

裏と表が半々に存在している線の上で、どうしようもない今日の言葉を捨てて、明日のゴミ収集に消えていく。


深夜に浸れる曲を世界に投げかけたら、曲をぶん投げてくれた。

クラシックとの邂逅。

これが世界に投げかけることの意義だろうが。

今日は何捨てようかな。

自分を甘やかしてご褒美に使わせていただきます。