振り絞ったわたしの話を聞いてほしいんだ
「自分を曝け出して無防備になって、素直に生きればまっすぐな道が開けてくる」と、正論かつ世を順風に渡る術を、幾度となく目の前で披露された。
見当たらない素
大正論が頭上をまかり通る事実はさておいて、自分の素の部分を躊躇いもなく見せつけることなんて、一生をかけてもできない気がするのだ。
大事に思っている友人でも家族でも、常に真上から物を見られている監視状態が続くのが身震いするほど嫌で、位置情報を見て安心しあうために存在意義があるZenlyは、開口一番に拒否した。
赴くままの感情とやらは、一人であるという条件が絶対で、相手が誰であろうと関係者が登場した時点で、何かを抑え込み隠し通し、会話の中でも最低限のレスポンスしかしない。いや、それしかしたくないのだろう。
自分語りを嫌う
主観、客観ともに、「自分語りを嫌う」が大前提として一番先頭で壁を作っていて、利害関係に直結しそうな事務的会話以外でこちらの引き出しは開かない。聞き手には答えを返していくが、話を膨らませる気は毛頭ない。
「誰かに対しても興味がない」とこれまで書いてきたが、もしかすると、根底には逆の事象が成り立っていて、正しくは、「自分のことには誰にも興味を持ってほしくない」なのかもしれない。
自分の中身を語っていくうちに、空洞である自分の存在と事実に気づきたくないというのも頷ける。
モテテクニックなら、「ミステリアスな一面」と呼ばれるものに近いものに該当するのだが、一面どころの騒ぎではなく、全体の半分近くは内に秘め、見せつけるのを恐れている。
隠すのがカッコいいとか、そんな斜に構えた見方をしているわけではないことはここでしっかりと言っておきたい。
躊躇いもなく話す
「自分のことを自分の口から話す。」
たったこれだけと言われればこれだけなのだが、他の苦手意識とは比べものにならないぐらいには強い拒否反応がある。
自己表現が会話に乗っかってこない。言葉選びと、捨ててばかりの取捨選択で言葉を濾過しているうちに、コミュニケーションには追いつけなくなる。
親しい人でも同じ反応を示すあたりから、人見知りとはまた違う拒否反応であるといえる。
文字にする
文字を書くという行為は、スピード感が求められずに、好きなだけこちらの都合で選択しながらコミュニケーションが図れる点で、心の負担は軽くなっている。
ここ数年は、内容にまとまりがあろうとなかろうと、心情の描写は文字情報に記す形に頼っている。noteを始めたきっかけも、元を辿ればコミュニケーションの練習の一環でもあった。自己理解の手段の一つから始まったはずだった。それは今もさほど変化していない。
浮き彫りになる恐怖
自己開示への恐怖は日に日に強靭なものとなっていた。
「夢や目標ほど綺麗なものじゃなくてもいいから、なんとなくでこうなっていたい!という将来像はあるか?」と聞かれたとき、脳内がパンクして言葉ひとつ出てこなかった。
定かではない感情を表立って口にすることになんのメリットがあるのか?と自分でもわからなくなっている。
小馬鹿にされるか、煙たがられるかのどちらかだと思われてしまうと、相手の反応込みで考えている自分がいた。何かを発することが、とんでもない災難の発端になると信じて疑わない。
言ったことに対しての責任を取れない。負えない。担えない。
言霊はあると信じているように、言葉が重荷になって潰されることだってあるはずだ。
自分の発言を忘れることができない。口数が普段から少ないから、なおさら言葉は鮮明に覚えてしまう。目当てを一度記せば削除できない。
過去のあれこれに自信も面白さもなければ、これから先のことを話せるほどの饒舌さもない。
中身のない空洞に対する自己否定は対抗策も見えずに、ジリジリと穴が拡大されていく。空洞を埋めるスピードを、穴の拡大が上回ってしまう。
綻ぶ
筆者が存在する文章を自分語りと捉えられても一切反対はできないし実際その通りなのだが、これ以上自分を語ることに対する恐怖が大きくなってしまったら、それこそ自分であることを表現する手を止めてしまうと同義だ。
今現在のわたしの最大の武器であり身近な鎧でもあるものは、文字に残すことで強化される。
冒険を進めていくために、まずはここで物語を進めていく必要がある。
わたしが歩んでいる物語を、また語らせてもらってもいいですか。
自分を甘やかしてご褒美に使わせていただきます。