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プリズム劇場#007「花束を持ってバスに乗る人」

こちらはラジオドラマ番組『小島ちひりのプリズム劇場』の作品を文章に起こしたものです。
是非、音声でもお楽しみください。
【standfm】
https://stand.fm/episodes/658e3126ee775b78acae8346
【YouTube】
https://youtu.be/DE07uB8tPRU
【その他媒体】
https://lit.link/prismgekijo


「今までお世話になりました」
 そう言って頭を下げると、職員達が一斉に拍手をした。
 平野先生は鼻をすすりながら私に大きな花束を渡し
「教頭先生、今までお疲れ様でした」
と言った。
「あなたは特に手のかかる新人だったわ」
と冗談ぽく言うと
「私だってがんばってたんですよ!」
と涙を拭いながら平野先生は言った。
 武井先生は
「平野先生も、教頭のおかげで立派な保育士になりましたね」
と、言うので
「現場の皆さんのおかげです。これからも子供達のためにがんばってくださいね」
と返した。

 保育園の近くのバス停の待合の椅子に、いつも通り座った。膝の上には大きな花束。この光景を見るのも、今日が最後なのかと思うけど、いまいち実感が湧かない。
 短大を出てから40年。他人の子供の世話をして生きてきた。自分自身は家と保育園の往復で、特に趣味もなく、目の前の仕事と週末にやってくる山積みの家事をこなしていたら、いつの間にか定年を迎えた。
 仕事は好きだった。子供達は一日一日毎に成長し、変化していく。生きる力を感じた。
 それと同時に、一緒に働いている人達も変わっていった。結婚したり、出産したり、実家に返ったり、夫の仕事に着いていったり、転職したり、誰の人生にも"変化”があった。
 ただ、私を除いては。

 ぼんやりそんな事を考えていたら、スーツを来た若い男の子が、私の隣の椅子に座った。A5サイズ程のメモを見ながら、何やらブツブツ言っている。
「御社を志望したのは、御社のサービスに感銘をう、受けたからであり……」
 そんな男の子の声を聞きながら、ふと、私は何故あの保育園で働こうと思ったのだったか、と思い巡らせた。しかし、どんなに考えても、たまたま内定を貰えたのがあの保育園だっただけだ。
 何故保育士になろうと思ったのかも覚えていない。何となく、母が「保育士だったら自分が子供を産んだ後も役立つ仕事だから」と勧められたような記憶がある。
 しかし私は子供を産まなかったので、その動機は意味をなさなかった事になる。

 隣の男の子はまだブツブツ一生懸命言っている。
「御社に入ったら、なるべく早く仕事を覚えて、いつかチ、チームを任せられるようになりたいです」
 私は別に、教頭になんかなりたくなかった。しかし、働く人がどんどん入れ替わる中、独身で大きな事情も持たず、働き続けられる私以外になれる人がいなかった。
 だから回ってきた。それだけの事だった。

 男の子の独り言は続く。
「御社で働いていて、例えばどんな所に働きがいを感じますか?」
 働きがい。そんなものあっただろうか。特に教頭になってからは、ただただ毎日の業務をこなす事で精一杯だった。新卒が1ヶ月で辞める事なんてザラだったし、産休を取ったまま復職しなかった人も多かった。新しい人を雇っては、仕事のやり方を教えなくちゃいけないし、書類は山ほど送られてくるし、市長や政府はコロコロ言う事変わるし、ルールが毎年変わるから、それに合わせて業務や施設を変えなくちゃいけないし。
 私だけ、私だけが変わらなかった。40年間。大きな変化をしないまま、保育園を立ち去る事になった。
 こんな大きな花束を貰って、私は一体何処へ向かうのだろう。

 バスがやって来た。私が立ち上がると、男の子も立ち上がった。バスに乗り、後ろの席に座る。
 バスには、先ほどの男の子と、赤ちゃんを抱えた女性、年老いた夫婦、制服を着た小学生、様々な人が乗っている。みんな、変化しながら生きている。
 私以外は。

 ふと気がついた。私がこのバスに乗るのはこれが最後だ。と、言う事は、ついに私も変化を迎えると言う事だ。
 このバスに乗らない生活。保育園に通わない人生。就職してから40年。初めての事だ。
 全く実感が湧かないが、私は明日の朝、起きてもやる事がない。行く場所もない。何処で何をするのか、自分で決めなくちゃいけない。子供と接する事もない。手のかかる部下の面倒を見る事もない。そんな生活、私に耐えられるのだろうか。
 変化をしていく人達の事を、ずっと羨ましく思っていた。変わっていく人達のために、自分の変化をないがしろにしているような気がする事もあった。しかし、今初めて自分の変化を迎えようとして、ああ、変化とは、こんなに恐怖を感じる事だったのか、と思い知った。
 しかしその一方で、私は明日とりあえず寝坊してやろうと、ちょっとワクワクもしていた。

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