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情念論 デカルト著

「情念論」デカルト
 
アランの幸福論は愛読書を超えて座右の書となった。はっきり言って超お気に入りである。その中でアランは繰り返しデカルトの情念論に触れている。あれほど優れた名著が今(1920年代)ではほとんど読まれないのは残念なことである、と言っている。尊敬するアランがそういうのであるから読まないわけにはいくまいと思って図書館で借りた。
図書館の情念論は今まで誰の手にも触れられていないのではないかというほどに新品同様、ミントコンディションだった。2020年代でもほとんど読まれていないに違いない。
 
情念論を現代人が読むにはなかなかつらいところがある。まず第一章は肉体の仕組みについて延々と語っている。いわく心臓の仕組みはこうだとか、肺はどうだとか、血管はどうだとか内容が自然科学である。情念はどこへと思うが、肉体と精神を分離するところから話が始まるのだから順序としては順当らしい。西洋の科学はこのように分化を続けることで発展していったのである。分断の西洋、調和の東洋である。言ってみたかっただけである。
 
したがって第一章はパラパラと飛ばして先へと進んだ。情念論が書かれた1600年代には意味があったのだろうが、現代人なら概ねその内容は既知であるからだ。そして第二章になっていよいよ精神面へと入っていくが、またしてもパラパラと飛ばしてしまう。なぜならそこにあるのは、喜びとはなにか、憎しみとは、悲しみとは、高慢とは、欲望とは、震えとは、無気力とは、快とは、不快とは……、についての定義がずらずらと並ぶのである。こうして細かく分類するのが西洋人はよほど得意と見える。さらにそれらの精神状態における肉体の反応や表現についても詳細を極める。まるで退屈なので飛ばしていると目を引く文章を見つけた。
 
148.徳の実行が情念に対する最上の治療法であること。
 
引用する。
……わたしたちの精神が内奥にみずから満足するものをつねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。……自分が最善と判断したすべてを実行することにおいて、欠けることがあったと良心に咎められないように生きてきた人は誰も、そのことからある満足を感得する。この満足は、その人を幸福にするきわめて強い力を持つので、情念のいかに激しい衝撃も、彼の精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない。
情念論 ルネ・デカルト著 岩波文庫 p.128  2008年
 
なるほどアランは情念論の至る所を現代語訳(といっても1920年代の)にして自分の言葉として発信していたことがわかった。このページに注意が向いたのもこれについて語ったアランの言葉に共感していたからである。ということはもう少し注意深く情念論を読めばもっとアランのアイデアの源泉に触れられると思うが、次に読む本が待っているのでもういいやという気分になっている。
 
アランの幸福論は通しで三回読んで、今四回目にじっくりやっているところである。物語と違って中断しても途中から始めても問題ない。こちらも備忘録として感想文を書きたいが、入れ込みすぎていてすでに書きにくいものになってしまっている。
 
情念論は年明けに図書館へ返却するつもりである。
フォースとともにあらんことを。

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