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「フォードvsフェラーリ」に見るアメリカと欧州の車文化の違い

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先日実写版「トランスフォーマー」第一作目の記事を書いたら、やはり同記事内で触れた「フォードvsフェラーリ」ついても書きたくなったので書きます。同作の公開当時、仙台では市内にある4つの映画館のうち3つがほぼ同時期にこれを上映するという激推しっぷりでした。やはり仙台も政令指定都市とはいえ東北の地方。それなりに車バカがおり、映画館も動員が狙えると踏んだのでしょうか。

本作はフォードがル・マン24時間レースで初優勝するまでの実話を元にした伝記映画です。作品の時代設定は1963年~1968年。主人公は元レーサーでカーデザイナーのキャロル・シェルビーと、テストドライバー&レーサーのケン・マイルズですが、他にもヘンリー・フォードII世、リー・アイアコッカ、エンツォ・フェラーリ、ブルース・マクラーレン、ロレンツォ・バンディーニと、誰一人欠けても現在の車業界はなかったという綺羅星のごとき伝説的人物が登場する群像劇でもあります。しかしこのメンツが同じ時代に生き同じ場所に存在していたなんて、なんという奇跡でしょうか。でも当の本人たちは、自分が伝説的な時代に生きているとも、伝説的な場所にいるとも、自分が伝説になるとも思っていなかったでしょう。

シリアルアントレプレナー・キャロル・シェルビー

物語は心臓病が悪化しレーシングドライバーを廃業したキャロル・シェルビーの回想から始まります。劇中ではかなり端折って、かつ悲壮な感じでスタートしますが、もともと彼は高校卒業後に米空軍に入隊し、20代そこそこで飛行教官およびテストパイロットになる”スピードの天才”でした。そして第二次世界大戦後に除隊した後は故郷のテキサスで養鶏場を経営しますが、友達に誘われ地元の草レースに出場し優勝。それに勢いづきプロのレーサーへと転身します…って、この時点でもう凄い。しかも劇中では、1959年のル・マンで優勝したことのみ語られていましたが、実際に彼が活動していたフィールドはF1で、1959年ル・マンには初出場だったのに優勝。その年に心臓病によりレーサーを引退しますが、普通ならこの実績だけで人の人生としては十分でしょう。ところがこの時点で彼はまだ38歳で、むしろ引退後から彼の人生は文字通り加速していきます。まず引退後すぐにレーシングドライバーの養成学校「シェルビー・スクール・オブ・ハイパフォーマンス・ドライビング」を設立し、次いで1961年に自身がデザインしたスポーツカーを開発する車メーカー「シェルビー・アメリカン」を設立。前述のように心臓病を患いながら立て続けに会社を2つ設立とは、レーサーの実績云々抜きにしてもシリアルアントレプレナーっぷりが凄え。劇中、シェルビーは大企業のフォードとシェルビー・アメリカン、特にテストドライバーのケン・マイルズの意向との調整役となり、双方の板挟みになる苦しい立場であることが描かれますが、彼自身もまた「経営者」だったから、と考えると実に自然な表現です。

なお、彼がデザインしたシェルビー・コブラはアメリカン・スポーツカーの名車として知られ今でも多くのファンがおり、劇中でも肝心のフォードGT40より登場回数が多いんじゃないかというくらいフィーチャーされていました。もう本作の裏主役はコブラと言っても過言ではありません。

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コブラはシェルビー・アメリカンが最初に手がけた車で、イギリスのACカーズが販売していたロードスターに、フォードの4.2リッターV8エンジンを載せマッスルカーに仕立てた仕様で、劇中冒頭でも描かれているとおり流行に敏感なベビーブーマー世代の若者に人気となりレースでも活躍。1963年よりル・マンをはじめとしたレースに参戦を開始し、1964年にはル・マンGTクラスで優勝を果たしました。劇中では描かれていませんでしたが、シェルビー・アメリカンとフォードとの開発提携の裏にはこうした実績が効いていたことがうかがえます。

シボレーの影

本作はタイトルこそ「フォードvsフェラーリ」ですが、実際には「フォードvsキャロル・シェルビー&ケン・マイルズ」で、全編通して見ると「なんだかんだやっぱりフェラーリはかっこいい。そしてフォードはクソ!」と、フォードに対するヘイトが溜まってきます。しかしその一方、「フォードはフォードで大変だったんだな」と思わせるシーンもしっかり描かれており、一概にクソ大企業とは言い切れない味わいがあります。特に面白いのが、フォードを苦境に立たせている存在としてGM・シボレーが示唆されていることです。冒頭、当時のフォードCEO・ヘンリー・フォードII世は工場のラインを止め「祖父が築き上げた栄光はどうなった?シボレー・インパラの排ガスだ!」と怒鳴り、文字通りGMの後塵を拝していることを社員に訴え、それを脱するためのアイデアを募ります。GMはフォード、クライスラーと共にアメリカの自動車業界のビッグ3と言われている巨大メーカーですが、本作の時代設定である60年代初期にはGMが世界最大の車メーカーとして我が世の春を謳歌していました。ちなみにヘンリー・フォードII世の台詞にあった当時のシボレー・インパラはこんなデザイン。

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だいたいこの時代のアメ車のデザインセンスは良い意味で頭がどうかしていました。同じビッグ3のクライスラーが販売していた300Fもこんなのでしたから。

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レトロフューチャーな感じが一周して新鮮でクール。

その一方、フォードは世界初の大衆車・T型フォードを作りまくって売りまくったせいですっかりクソダサ大衆車メーカーというイメージが定着してしまいました。前の記事でも取り上げましたが、T型フォードの普及によりアメリカでは車が一部の富裕層の贅沢ではなく一般大衆の生活道具となり「車の国」となりますが、皮肉にも普及し尽くしたせいで一般大衆、特に若者は「ただ走るだけの車」から「走るのが楽しくなる車」「デザインがカッコ良い車」などといった付加価値を求めるようになりました。そこに他社が上手く入り込み、出遅れたフォードは売上でもイメージでも他社に後れを取ることとなります。

劇中、シボレー・インパラと共に名前が挙がるライバル車がこれまたシボレー・コルベットでした。コルベットについても前の記事で取り上げましたが、シボレーは1953年に「アメリカ初の本格スポーツカー」を標榜しコルベットを発表して以降、国内外の様々なレースに出場し好成績を残して名声を高めていました。劇中当時では既にコルベットはサーキットでは知られた存在で、2代目モデルのC2型もリリースされていました。

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直線がぐるっと一周しているデザインが特長的なシボレー・コルベット・スティングレイC2型。ちなみに「スティングレイ(エイ)」のセカンドネームが付け加えられたのは開発者の一人であるビル・ミッチェルの趣味が海釣りだったからだとか。なお、デザインを手掛けたのは第二次世界大戦中に強制収容所に収容された経験のある日系人カーデザイナーのラリー・シノダ。彼のデザインが現在まで続くコルベットのデザインの母体となります。

劇中前半、キャロル・シェルビーと大喧嘩した後にケン・マイルズがコブラに乗って草レースで優勝するシーンが描かれますが、そのライバル車のほとんどがこのコルベット・スティングレイC2型でした。劇中では端折られていましたが、そもそもシェルビー・コブラはフォード製のエンジンを積んだ車で、ケン・マイルズがそれを運転してあちこちのレースでシボレー車に勝ちまくっていたため、その実績もありシェルビー・アメリカンのテストドライバー兼テクニカル・アドバイザーとして迎え入れられたという経緯があります。劇中では一回の草レース優勝でそれが描かれていましたが、おそらく事実を”象徴”する映画的な演出だったのでしょう。

その後1964年、フォードはクソダサ大衆車メーカーからの脱却を目指し、副社長リー・アイアコッカの指揮のもとベビーブーマー世代をターゲットとしたスポーツカー「フォード・マスタング」を発表しますが、実は同車のチューニングを担当したのがキャロル・シェルビーであり、現実ではフォードのル・マン出場決定以前より両者の技術提携は進んでいました。当時、モーターレースは今よりずっと身近な娯楽で、サーキットで速さを見せつけて勝つことは如実に販売成績に直結していました。この経緯を振り返ると、いかにフォードがレースでも勝てるカッコ良いスポーツカーを欲していたか、それによりイメージを刷新したかったかが窺い知れます。それにしてもキャロル・シェルビー、自分の会社を2つ経営して自社の車も作って他車の車もチューニングしてさらに敗北が許されない新規プロジェクトにも参画するとは、一体何を喰っていればそんなにエネルギッシュな人生が送れるのでしょうか。どうでもいい情報ですが、劇中で描かれた期間中、彼は2度目の結婚をして離婚をして3回目の結婚をし、更にその傍ら浮気もしています。マジでこいつの人生何?心臓病どこいった?

悲運の二代目と三代目

本作で私が一番印象に残ったのは、キャロル・シェルビーがヘンリー・フォードII世を完成したばかりのル・マン用マシン・フォードGT40に詰め込んで爆走するシーンでした。これは公式動画がYoutubeにUPされているのでご覧頂きたいのですが…

フォードGT40のパワーを目の当たりにしたヘンリー・フォードII世は泣いているのか笑っているのか分からない泣き笑い状態で「父さんが生きている間にこれを見せてあげたかった。乗せてあげたかった」と心情を吐露します。劇中冒頭、彼は前述のように工場で「祖父が築き上げた栄光はどうなった?シボレー・インパラの排ガスだ!」と怒鳴っていることから、フォード創業者ヘンリー・フォードI世の「」であることが示されます。ところが、エンツォ・フェラーリは副社長のリー・アイアコッカに向かって「所詮は”二代目”だ。初代とは格が違う」と言ってII世を侮辱します。創業者の「孫」なのに”II世”で外部からも”二代目”と認識されているとはこれ如何に?では父親は?

実はヘンリー・フォードII世はフォードの二代目ではなく三代目。彼の父のエドセル・フォードも1919年~1943年までフォードCEOに就任しており、T型フォードよりも華麗で刺激的なスポーツカーに早くから興味を示し、フォードの跡取りであるにも関わらず自社の車ではなく英MGのスポーツカーに乗っていたほどでした。当然早期より父親のヘンリー・フォードI世に若者向けスポーツカーの開発を進言していましたが、安定したT型フォードの生産販売を維持したい父は却下。その後代表に就任した後エドセルは父と衝突しつつも、高級車メーカーのリンカーンを買収したり、海外に生産拠点を設立したり、中級乗用車のマーキュリー部門を設立したり、油圧式ブレーキを導入したりと様々な新しいことに着手しますが、49歳の若さで胃癌とブルセラ病を相次いで発症し亡くなってしまいます。先のエンツォ・フェラーリの暴言をリー・アイアコッカから伝え聞いた際、ヘンリー・フォードII世は「醜い工場で醜い車を作ってろ」という言葉は聞き流したのに、「所詮は二代目」のところでスーっと静かに表情を変えていました。

なぜヘンリー・フォードII世が「フェラーリ潰す!」と激怒したのか?それはきっと自分や会社を侮辱されたこと以上に父親を「いなかったこと」にされたからではないでしょうか。加えて、クソダサ大衆車メーカーのイメージからの脱却は父エドセル・フォードの夢の実現でもあったことを考えると、このシーンで彼が「I have no idea」と連呼して泣いている意味がより重いものだったことが分かります。「I have no idea」が字幕ではシンプルに「知らなかった」と訳されていましたが、このシーンでのより適切な訳は「まさかこれほどとは」かもしれません。またこのシーンで泣きながら「Daddy」と、まるで子供のような言葉遣いになっているのにも哀しみを感じます。この一瞬、彼の魂はまだ父親が元気だった頃まで戻ってしまっていたのでしょう。このシーン一つで、彼が冷徹な企業人なだけではない、やはり車を愛している立派な車バカだということが分かります。

カーレース=近現代のノブレス・オブリージュ

本作の魅力は勿論実写撮影したレースシーンであり、そのエンジンの爆音を完全再現した音響でしょう。しかしその一方で興味深い点は、欧州とアメリカの車文化の違いを、具体的な台詞ではなくさり気ないシーンで表現していることです。

もともと自動車開発の歴史は「馬がいなくても自動で走る馬車があればいいのに」がスタート地点でした。1886年、ドイツにてカール・ベンツが世界初の一般販売用3輪自動車「ベンツ・パテント・モートルヴァーゲン」の特許を出願し自動車販売を事業化します。それ以前にも自動車開発事例がありましたが、特許を取得して「製品」として同じものを複数作って顧客に販売した例としてはこれが初です。

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この当時の車は、馬車と同様に全て職人が手作業で作っていたため高価で、かつ馬車から発展したという歴史もあり貴族や資産家といった一部の富裕層の贅沢品でした。そのうち、彼らは自分達が持っている車を一斉に走らせる競技「カーレース」をしたら面白いのではないかと考えるようになり、早くも上記のベンツ・パテント・モートルヴァーゲンの発売から1年後の1887年に、フランス・ヌイイ橋~ブローニュの森まで約2km間でカーレースを開催します。それから7年後の1894年には、フランスの大衆新聞「ル・プティ・ジュルナル」が「126Kmを12時間半以内に走行して順位を競う」という明確なルールを設けた現在のラリーに似たカーレース「パリ・ルーアン」を主催するまでになりました。現在のカーレースは速さを競う面が強調されていますが、当時のカーレースは「明確にルールを設け、その中で最も安全で操縦しやすく壊れない車を公衆の面前で明らかにする」という実証実験的なもの。19世紀当時、車はまだ新しい発明品のため製品として不安定で、安全基準もへったくれもない、ヘルメット着用義務すらなく皆「正装」で運転するという有様。当然トラブルや事故も多発しましたが、ここでレース出場者は「敢えて自分達が人柱になり、危険なことを他に先んじてやることこそノブレス・オブリージュ(地位、権力、財産を保持する者には社会的責任と義務が伴うこと)である」と考えるようになりました。実際、現代でもカーレースは車の実証実験でもあり、過酷なレースで得たデータやレース用マシンの開発の過程で生まれた技術を一般販売用の車両に反映するし、一般販売用の車両をレース仕様にして走らせて改善点を見つけます。そうした、後々一般販売用の車両のためになることを、危険を冒し命がけでやることが当世代のノブレス・オブリージュだと19世紀の、とりわけ新しもの好きで向こう見ずな貴族や資産家は考えるようになり、こうした背景から欧州の車文化、特にカーレース文化と貴族文化は密接に繋がっていきます。

ところがアメリカはイギリスから独立した新興国なので貴族文化なんてそもそもなく、フォードがベルトコンベアー方式でT型フォードを作りまくったもんだから車はすっかり一般大衆のものとなり、おまけに20世紀前半にテキサスで油田が発見されガソリンの安定供給が可能になったため、車を愛好しカーレースに熱狂する文化はアメリカ南部~中西部の田吾作という貴族文化とは対極にある人種を中心に定着しました。それを表した例に、2006年公開のピクサー映画「カーズ」の第一作目の主題歌「Real Gone」の歌い出しの歌詞にこんなのがあります。

I'm American made, Bud Lightz, Chevrolet
My mama taught me wrong from right
I was born in the South
Sometimes I have a big mouth
When I see something that I don't like
I gotta say it

和訳
私はアメリカ製 バドライトやシボレーみたいに
母は正しい事から悪い事までみんな教えてくれた
私は南部生まれで大口叩き
気に食わないものを見たら
気に食わないと言わなきゃ気が済まない

これはアメリカ南部出身者の心意気を表現した歌詞で、ここで唄われている「シボレー」は、NASCARあたりで活躍するコルベットやカマロ、インパラを指しているのでしょう。なお、この曲はカントリーシンガーのビリー・レイ・サイラスのカヴァー版もあり、こちらは「I'm American made, Apple Pie, Chevrolet」になっています。まあアップルパイもアメリカ南部の田吾作がよく喰ってそうなイメージがありますからね。

ドラッグレース会場で収録したPVが最高にクール。

こうした欧州とアメリカの車文化の違いを踏まえて本作を見ると、随所に散りばめられているさり気ないシーンや台詞にも意味があったことが見えてきます。ケン・マイルズの自動車修理工場の経営状態がなぜ芳しくなかったのか?スポーツカーの調整で顧客と揉めていたのか?それはケン・マイルズがイギリス出身で、スポーツカー開発の歴史と文化を知っている欧州人だったからです。一方アメリカのスポーツカー開発&世界的カーレース出場の歴史なんて1953年のシボレー・コルベット以降だから知見が違い過ぎます。フォードとフェラーリの買収交渉の場でレース出場の決定権で交渉が決裂したのだって、エンツォ・フェラーリにしてみたら「ポッと出のアメリカの大衆車メーカーに歴史ある欧州のカーレースに口出しされてたまるかコンチクショー!」でしょう。そしてフェラーリの社屋の美しいこと!邸宅か城のような優美な社屋で、職人一人一人が手作業でエンジンを組み立てており、車が発明された当時の、職人手作りの貴族や富裕層の贅沢品だった頃の車文化を彷彿とさせます。それに加えて、実はフェラーリと秘密裏に買収交渉を進めていた大衆車メーカーのフィアットでさえ、これまた邸宅か城のような社屋で高そうなスーツを着た社長が昼間から酒を飲んでいるときた。その一方、フォードは灰色の工場で汚れた作業着を着た工員がベルトコンベアー方式で車を組み立て、社長以下役員みんな冴えないダークスーツ。もう文化も人種も何もかも違い過ぎ、買収できると考えたフォードの方がどうかしていたとしか思えなくなります。
こうした文化の違いは終盤のル・マンでも描かれており、カウボーイハットをかぶってル・マンに乗り込んだテキサス出身のキャロル・シェルビーと、ボルサリーノの中折れ帽をかぶって現れたエンツォ・フェラーリの対比もまた鮮烈でした。まあフォードの前にGM・シボレーが参戦していたとはいえ、キャロル・シェルビーにしてみたら「欧州のお高くとまった貴族気取りの連中をギャフンと言わせてやる!アメリカの田吾作舐めんな!」という気合い十分だったでしょう。

本作を見て思うのは、フォードGT40の誕生とフォードのル・マン三連覇は正しいタイミングで正しい場所に正しい人間が揃っていたという「奇跡」だったということです。キャロル・シェルビー、ケン・マイルズ、リー・アイアコッカ、ヘンリー・フォードII世、その父エドセル・フォード、そしてエンツォ・フェラーリ、誰が欠けてもこの奇跡は起こりませんでした。エドセル・フォードがクソダサ大衆車メーカーのイメージからの脱却を目標としなければ、それが息子のヘンリー・フォードII世に受け継がれることはなかったし、エンツォ・フェラーリが暴言を吐いて交渉を決裂させなければ、ヘンリー・フォードII世はル・マン出場を決断しなかったでしょう。またその交渉を担当したのがフォード・マスタングの開発を指揮していたリー・アイアコッカでなければ、スポーツカー開発の重要性を重役に説明できなかったろうし、当然シェルビー・アメリカンとの開発提携もなかったでしょう。フォードがル・マン三連覇を成し遂げた後、シェルビー・アメリカンは消滅し、リー・アイアコッカもヘンリー・フォードII世と袂を分かち解雇されます。まさに1963年~68年のほんの数年間だけの奇跡。本当の奇跡は人と人との出会いだな、なんて本作を見て思ってしまいました。そう考えると、キャロル・シェルビーとの出会いによって寿命が縮んでしまったケン・マイルズはそれが天命だったのかもしれません。その一方キャロル・シェルビーは、フォードと袂を分かちコブラを手放した後、なんとライバル社のクライスラーでダッジブランドのモディファイを担当し、カーデザイナーを引退した後は解説者やジャーナリストとして活躍し生涯車業界に貢献し続け、合計7回結婚し、2012年に故郷テキサスにて89歳で大往生を遂げました。マジでこいつの人生何?


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