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善人なおもて往生をとぐ、いわんや裏切り者をや --- エリア・カザン救済映画「沈黙 -サイレンス-」

先日「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ」のレビューで1950年代の米ハリウッドに吹き荒れた「赤狩り」の嵐について書きましたが、その際にふと頭に思い浮かんだ映画監督がいます。それは2003年に94歳という長寿で大往生したエリア・カザン。彼は「紳士協定」「欲望という名の列車」「波止場」「エデンの東」といった名作で知られる社会派映画の巨匠で、生涯に2つの監督賞を含む22ものオスカーを獲得しましたが、その一方で「赤狩り」の時代に非米活動委員会の圧力に屈し、古くからの仲間8人を共産主義者であると告発した「裏切り者」としても知られています。

彼はこの裏切りの”功績”を認められ、ブラックリストから除外されるのみならず映画監督の地位を確保、後にマーロン・ブランドを起用し「波止場」で8つのオスカーを獲得し、「赤狩り」の嵐が過ぎ去った後もハリウッドの最前線で活躍し続けました。
なお、カザンは長年の功績が認められ1998年のアカデミー賞にて生涯功労賞を受賞しますが、この受賞セレモニーがお世辞にもおめでたいとは言い難いビミョーな雰囲気で、画面を見ているこっちが気まずくなるものでした。

ご覧の通り巨匠マーティン・スコセッシとロバート・デ・ニーロがプレゼンターを務めていますが、もう見るからにデ・ニーロが緊張していて表情が強張っています。あのデ・ニーロが。そしてカザンが壇上に現れても、場内は立ち上がって賞賛する人もいるものの、拍手はすれど着席したままの人やあからさまに憮然とした表情で抗議する人が入り混じるなど様々。そんな雰囲気の中で必死にカザンを讃えるスコセッシがもう痛々しくて仕方がありません。ここでカザンが赤狩り時代に言及し一言でも謝罪を述べればまだよかったのでしょうが、彼は謝罪も赤狩り時代への言及もせず、ただ「さて、私はそっと脱け出します」と言って退場していきました。

これを踏まえて2017年公開のスコセッシ監督の映画「沈黙ーサイレンスー」を観ると、実は本作はもの凄く監督の個人的作品だったのではないかと思えてきます。

これは自身もキリスト教徒である遠藤周作の史実を基にした歴史小説「沈黙」の映画化作品で、ハリウッド映画ながら多くの日本人俳優を起用し全編を台湾で撮影(日本だと撮影費用が高くなるので)、アカデミー賞受賞はなりませんでしたが、 ロサンゼルス映画批評家協会賞で出演者の一人であるイッセー尾形さんが助演男優賞で次点入賞するなど話題となりました。
なお、「沈黙」が映画化されたのはこれが2回目ですが、1回目の1971年版がラストや宗教的解釈が改変されていたのに対し、本作は原作をほぼ忠実に映画化。キャラクター背景の細かい説明などは省かれていますが、それも演出を見ればなんとなく察することができるのでさほど問題ではありません。

作品の舞台は17世紀。ポルトガルでイエズス会の宣教師であるロドリゴ神父とガルペ神父のもとに、彼らの師で日本で布教活動をしていたフェレイラ神父が棄教したという知らせが届きます。尊敬していた師が棄教したことを信じられない2人は、彼を探し出して真実を明らかにするため、中国商人の手引きにより日本に密入国します。彼らは隠れキリシタンの村・トモギ村に辿り着き、迫害に屈せず密かに信仰を守り続ける村人たちと交流しますが、そこにも役人の詮議の手が迫るのでした---。

江戸時代の、それも離島という過酷な環境下の百姓の生活は貧しく、戦国時代に日本を訪れた宣教師によって伝えられたキリスト教が彼らの心を捉え、それが彼らの生きる希望になっていただろうことは容易に想像できます。しかし禁教令を発令した幕府にとっては、たとえ地方の小規模な村であろうとも許せるものではなく、隠れキリシタンや宣教師を見つけるために頻繁に詮議を行い、疑わしき者にはキリストや聖母の図を足で踏みつける「踏み絵」や十字架を侮辱することを強要し、それを拒んだ者には生きたまま弱火でじわじわ焼き殺す「火炙り」や、満潮時に水没する場所で十字架刑に処す「水磔」、頭部を少しだけ切り穴の中に逆さに吊し続けて血を抜く「穴吊り」といった拷問兼処刑を行いました。
本作では、それでも信仰を捨てず、むしろ残酷な処刑にも信仰心を以て対峙する勇気ある信徒の姿を示していますが、弾圧される信徒=かわいそうな弱者であり正義、弾圧する役人=愚かな悪者という善悪二元論的表現になっておらず、注意深く観れば観るほど神父や信徒の信仰心は役人以上に狂気を帯びているのではないか?とさえ思えてくる演出が見事です。

そもそもなぜカトリック教会は日本にまで布教をしにきたのか?その裏にはマルティン・ルターに端を発する宗教改革があります。16世紀、カトリック教会は死後に罪が許され天国へ行ける「免罪符」を売り捌く露骨なマネタイズを行っていましたが、マルティン・ルターはこれを教会の堕落であると激しく批判。それをきっかけに従来のカトリック教会からプロテスタント(Protestant:抗議する者)が分離し、ドイツ、スイス、北欧と徐々に北欧州に広まっていきました。これに危機を感じたカトリック教会はイエズス会を結成して新たな「市場獲得」のため海外布教を行いますが、これが西欧列強による大航海時代と植民地支配の時代と重なり、宣教師が軍隊の先遣隊のような役割を果たすようになります。宣教師が来た後に商人が来て、次に軍隊が来てその地を植民地にしてしまうという。日本にもその影響は及び、織田信長の時代には日本の信徒は数十万人にも増加しました。しかし豊臣秀吉の時代に悪質な宣教師と商人が日本人を奴隷として拉致し海外に売り飛ばしていることが明らかになったこともあり、キリスト教は「危険な宗教」であるとされ禁教令が発令。それでも宣教師の密入国や彼らから教えを受けた日本人司祭たちの布教活動は止まず、幕府の彼らに対する弾圧は強まっていき、1637年の「島原の乱」以降弾圧はさらに苛烈になっていきました。

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本作では、イッセー尾形さん演ずる井上筑後守というヴィラン的な奉行が登場します。彼は信仰を捨てない信徒に対し、彼ら自身に人質を選ばせることで仲間割れするよう仕向けたり、宣教師の目の前で拷問や処刑を行い棄教を迫ったりと、肉体的拷問以上に陰湿且つ洗練された精神的拷問を行う、宣教師と信徒にとって最も恐ろしい危険人物です。ところがこの井上筑後守、温厚でキリスト教や国際情勢に対する深い知識を備え、宣教師たちとも対等にディベートできるほどの語学力をも身に着けているクレバーな人物でした(劇中では英語ですがストーリー上ポルトガル語で喋っている設定です)。彼は実在の人物で、史実でも遠藤周作の原作でも、もともと熱心な信徒であったにも関わらず、後に自分の意思で棄教して弾圧する側となり、先述の拷問兼処刑法「穴吊り」を考案した人物として知られています。

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また、続いてもう一人の”弾圧側”の重要人物として浅野忠信さん演ずる「通辞」(通訳)が登場しますが、彼もまた原作では元信徒だったという設定。本作で彼らの背景が説明されることはありませんが、この時代にポルトガル人の宣教師と対等にディベートしたり宗教的な事柄まで通訳できる程の知識と語学力をなぜ身に着けているのか…と考えれば言わずもがなでしょう。彼らが自らの意思で棄教した理由は原作でも本作でも語られません。しかし宣教師ロドリゴ神父と彼らのディベートから、徐々にキリスト教という宗教が持つ狂気、矛盾、独善、傲慢さが見えてきて、それに彼らはある時点で気付いてしまったのではないか…と推測できます。

例えば、ロドリゴ神父はトモギ村や後に渡る五島列島で村人と交流し以下のように独白します。

「彼らは初めて動物ではなく神の創造物として存在し、苦しみだけで終わることなく、救いがあると約束されたのです。」
「人々の暮らしは辛く獣のように生きて死ぬ。美しく善いもののために死ぬのはたやすいこと。惨めな腐敗したもののために死ぬのが難しい。私もまた彼らの一人であり、彼らの心の飢えを分かち合った。」

これは裏を返せば「キリスト教を信じる以前は動物と同等だった=キリスト教を信じない奴は動物並みで救いもない」と言っているようなものです。また、隠れて信仰を続けたことによってオリジナルの教義から変容してしまった村人たちの信仰や、イコンやロザリオなど信仰の対象となる物を崇める村人の姿に神父たちはいら立ちや不安を覚えますが、では形あるものを崇めるのがダメならば、裏を返せば「踏み絵」を踏んでも何の問題もないはずです。形あるものは信仰の本質ではないのだから。なのに神父は村人に「踏み絵」を踏むなと言い、殉教する彼らの姿に涙し、祈り、讃え、「殉教者の血は”教会の種”だ」と言いますが、井上筑後守はそんな彼らの狂気、矛盾、独善、傲慢を見逃さず糾弾します。

「お前が人の心を持つまことの司祭なら、切支丹どもを憐れむべきだ」
「お前の栄光の代償は信徒たちの苦しみだ」

神父たちの、キリスト教こそが何よりも正しく、重要で、その教えを守るためならば信徒が殉教する状況もやむなし、殉教はむしろ名誉であるという考えは明らかに狂信で、現代のイスラム過激派の自爆テロと一体どれほどの違いがあるでしょう。キリスト教が弾圧を受けている状況にわざわざ飛び込み、布教を行うことで死者が増えていくことを、本当に神は望んでいるのか?もし本当に神がいるのなら、なぜ神は苦しむ信徒を助ける奇跡を起こさず”沈黙”し続けているのか?井上筑後守と通詞はロドリゴ神父に問いかけますが、キリスト教こそこの世の真理と信じ切っている彼には届かず、ディベートは平行線のままです。それどころか、井上筑後守がスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスの4国を挙げて「いがみ合う4人の側室を城から追い出した大名」になぞらえたたとえ話を、植民地支配とその手先になっているキリスト教布教の暗喩であると気付くことすらできません。ポルトガル人の若者より鎖国している国の老人である井上筑後守の方が国際情勢に通じているという皮肉。彼が以前は信徒でありながら自分の意思で棄教した人であることを踏まえてこれらのディベートのシーンを見ると、彼もまた葛藤と絶望を味わった人であることが伺えます。

逮捕・投獄されたロドリゴ神父は、沈黙したままの神に問い続けますが、精神が弱り切った最後の最後に遂に

「踏みなさい。お前の痛みは知っている。私は人々の痛みを分かつためこの世に生まれ、十字架を背負ったのだ。

との声を聞きます。つまりイエス・キリストは踏み絵を踏んで棄教した者にこそ寄り添い、救うために存在しているというわけです。劇中、通辞はこう言い、仏教とキリスト教の類似を指摘します。

「我を捨てることだ。人の心に干渉してはならん。仏の道は人に尽くすこと。キリストもそうだろ。どちらも変わりはない。一方に引き入れなくともよいのだ。似ているのだからな」

この類似を踏まえて改めて最後のイエス・キリストの言葉を聞くと、ある仏教の有名な言葉が思い浮かびます。それは浄土真宗の宗祖・親鸞の言葉

「善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや」(善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる)

という「悪人正機」です。これは、阿弥陀如来の本来の願いは仏の道に外れた悪人や仏の道を全うできない弱い者をも見逃さず救済することにある、つまり善人が救われるのは当たり前だから、それ以上に救いが必要な悪人や弱者だって当然救われるという意味です。

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本作には、井上筑後守の弾圧に屈して家族を裏切り、何度もキリスト教を冒涜し、ロドリゴ神父さえ金で売り渡して密告してしまうガチクズのキチジローが登場します。彼は新約聖書に例えるならイエス・キリストを裏切ったユダであり、遠藤周作によれば幼児洗礼を受けさせた母を裏切った自分自身がモデルのキャラクターとのこと。彼は作中最も惨めな生き方をしていますが、だからこそずっと罪の意識に苦しみ続けます。だいたい拷問や処刑にも屈せず信仰を全うできた人は、苦痛や死の恐怖を克服するほどの強い意志を持てたのだから既に神に救われています。一方、彼らを弾圧する井上筑後守と通辞も自分の頭で考え、自分の意思で棄教する程の強い信念を持つことができている時点でやはり救われています。一番救いが必要なのは、強い意志も信念も勇気もなく、人として軸がブレまくっているキチジローのような人です。弱い者をこのガチクズめ!と糾弾することは、果たして神の意思に沿うものだろうか?むしろイエス・キリストはそうした弱い者に寄り添う存在だと遠藤周作は考えたのでしょう。ちなみに刊行当初はカトリック教会から大反発&大批判を食らい、長崎では禁書扱いになったそうですが、例えるなら20世紀に文学でマルティン・ルターばりの宗教改革をやろうとしたようなものかもしれません。

マーティン・スコセッシは一時司祭を目指していたこともあるそうで(ただし女とポップカルチャーにはまって1年で諦める)、やはりキリスト教を信仰する人。それを踏まえて再度1998年のアカデミー賞の映像を見ると、もうどう考えてもエリア・カザンを救済したいがために撮ったとしか思えないのです。確かに「赤狩り」に屈せず徹底抗戦した人々は強かったし立派だったでしょう。では裏切った側は全く苦しまなかったと言えるでしょうか?そしてなぜエリア・カザンだけが一際責められるのでしょうか?ジョン・ウェインやウォルト・ディズニーだって非米活動委員会の手先になって散々告発したのにアメリカ映画界の偉人とされ、ロナルド・レーガンなんて大統領にまでなったのに。それはエリア・カザンが当時既に高く評価されていた監督で、裏切り行為を働いた後も傑作を次々撮り、長寿だったのが災いしたのかもしれませんが、「赤狩り」からもう40年以上も経過し、すっかり老人になったエリア・カザンを未だに糾弾しているリベラルは果たして正義なのか?それってもはやイジメじゃないのか?という思いがスコセッシにあったのではないかと思えて仕方がないのです。
なお、スコセッシは「やたらとアカデミー賞にノミネートされるのにいつも獲得できない」というノーベル文学賞の村上春樹みたいな監督なのですが(一応2006年に「ディパーテッド」で受賞)、その理由の一つが「大っぴらに裏切り者のエリア・カザンを擁護しているから」という話があります。真偽の程は知りませんが、もしそうなら、結局非米活動委員会も現代のリベラルも同じことをしているようなものでしょう。ちょうど東西冷戦の東側も西側も似たような状況になっていたのと同じで。

「善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の出典はこちら。

原作小説はこちら。

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